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一つは選手の健康に危険があるとのリスク上の理由である。

第二の理由は、人間が努力することの価値の切り下げにつながるとの道徳的非難である。これは倫理学では、エンハンスメント/アチーブメント(達成)論といわれる。


つまり、同じ結果の達成でも、医薬品や身体的処置ではなく、自分の行為に責任を持って自発的意志に基づいて節制努力して達成した結果の価値が高いとする考え方である。


だが、結局のところ競技スポーツは、人間の不平等を肯定し勝敗や優劣の結果を競うものであって、アチーブメントや努力を公平に評価することを第一目的にはしていない。強い競争主義の圧力のもとでは、建前的な道徳論は実際の歯止めとして分が悪い。


第三は、ドーピングはルール違反だからという形式的な理由である。

注目すべきは、現在の商業化したスポーツ文化のなかでは、プロ・アマを問わずスポーツ選手は、個人としての人間というよりも、コーチやスポンサーやお抱えドクターなどのサポートチームさらにはスポーツ団体や国家をひっくるめたブランド名のようになっている事実だ。


いったん、こうしたシステムに組み込まれれば、競技能力のエンハンスメントを目指すため、選手には特別なトレーニング・メニュー、特別な食事、サプリメントなどが提供される。


それらの延長線上で、信頼していたチームドクターから渡された錠剤や施される特殊な処置が存在していたというのが、ロシアも含めた多くのドーピングの実態だったようだ。


パフォーマンス向上のための一種の「エンハンスメント連続体」のなかで、どこからがドーピングとして社会的に非難されるかは専門用語で書かれた最新の禁止表に掲載されているかどうかで恣意的に定まる。


こうした事態は選手個人の道徳性や知識の問題ではなく、競争圧力に過度に曝された近代スポーツというシステム全体の問題とみるべきだろう。

ドーピングと反ドーピングのいたちごっこを続けるのではなく、身体や精神に介入する医学技術が飛躍的に発展しつつある現代、「より速く、より高く、より強く」というオリンピックの競争主義的価値観にまだ意味があるのかどうかを再考すべきときではないか。