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内裏 - Wikipedia

後宮 - Wikipedia

典侍 - Wikipedia

長官は、尚侍であったが、後に后妃化して設置されなくなったため、典侍が実質的に長官となった。

平安時代後期になると、摂関・大臣となる家が固定化し、一人の天皇に対し女御・更衣として正式に入内する女性の数が少なくなった。こうした中、正式な皇妃の身分ではない典侍掌侍を含めた側近の女官・女房が、天皇の寵愛を受けてその子供を儲けることが多くなった。

鎌倉時代になると、天皇の乳母であったために任じられた女性のほかは、典侍はほとんど天皇の妻妾となった。

江戸時代末期には宮中における高級女官の最上位であった。その典侍の中でも最上位に位置し、女官を統括する者は大典侍と称し、勾当内侍(長橋局)と並んで御所御常御殿の事務諸事一切を掌握した。


典侍天皇の日常生活における秘書的役割を務める者(お清の女官)と、天皇の寵愛を受け皇子女を生む役割を持つ者がいた。安土桃山時代に近衛前子が後陽成天皇の女御となり、以後天皇の正配である女御の入内が再開されたが、女御(或いは冊立されて中宮)は基本的に一人であり、側室の役割は主に典侍が担った。そのため、江戸時代に即位した天皇の生母のほとんどは典侍である。女御・中宮となるのが摂家・宮家の女子であったように、女官も出身の一定の家格が決められており、典侍羽林家、名家の中で上位の家格を持つ公家の女子がなった。清華家大臣家は、摂家よりも下位、羽林家・名家よりも上位にあたるが、この家格は女御も典侍も出さなかった。

明治時代、明治天皇と皇后美子との間に子女が生まれなかったこともあり、数人の典侍・権典侍が側室の役割を持った。天皇の生母となった最後の典侍大正天皇の母・柳原愛子である。

大正天皇が一妻一夫制を実施したため、侍妾の役割を持つ典侍はなくなった。しかし事務女官としての典侍は存在し、最後の典侍となったのは大正15年6月に典侍に昇任した竹屋津根子(楊梅典侍)である。典侍・竹屋津根子、権典侍・清水谷英子を頂点とした大正天皇時代の女官は、天皇崩御により、皇后宮職の女官から皇太后職の女官となった。


大正末期、当時の皇太子裕仁親王昭和天皇)は女官制度の改革を進めた。典侍・権典侍などを廃して女官長を頂点とする東宮職女官制は、裕仁親王天皇に即位し、そのまま皇后宮職の女官制へと移行した。これによって典侍などの職制は、貞明皇后の皇太后職にのみ存続された。また、女官が未婚女性で構成され宮中に居住する御局制度も、皇太后の青山御所でのみ存続していた。昭和27年1月1日、皇太后職の残務処理はすべて完了し、律令制度からの名残りを保っていた女官制もここで停廃された。

内侍司 - Wikipedia

内侍司の女官は天皇に近侍し、奏請と伝宣(内侍宣)、宮中の礼式等を司った。天皇の秘書役とも言うべき重要な役職で、学問・礼法に通じた有能な女性が多く任命されたようである。


三種の神器のひとつ・八咫鏡を模した神鏡が温明殿(内侍所)に安置されており、この神鏡を守護捧持するのも内侍司の女官の役目である。故に神鏡を「内侍所」とも呼ぶ。

長官の尚侍は皇妃に準ずる扱いを受けるようになり、また次官の典侍天皇の侍妾としての性格を備えていることが多かった。

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