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佐藤賢了 - Wikipedia

1938年(昭和13年)3月3日、“黙れ事件”を起こす。軍務課国内班長として衆議院国家総動員法委員会において陸軍省の説明員として出席。国会審議で佐藤が法案を説明し、法案の精神、自身の信念などを長時間演説した事に対し、他の委員(佐藤の陸軍士官学校時代の教官でもあった立憲政友会の宮脇長吉など)より「やめさせろ」「討論ではない」などの野次が飛んだが、これを「黙れ!」と一喝。政府側説明員に過ぎない人物の国会議員に対する発言として、板野友造らによって問題視されるも、佐藤が席を蹴って退場したため、委員会は紛糾し散会となった。その後杉山元陸相により本件に関する陳謝がなされたが、佐藤に対し特に処分は下らなかった。作家の半藤一利によれば、戦後のインタビューで佐藤は「国防に任ずる者は、たえず強靱な備えのない平和というものはないと考えておる。そんな備えなき平和なんてもんは幻想にすぎん(汝平和を欲さば、戦への備えをせよ)。その備えを固めるためにはあの総動員法が必要であったのだ」と語ったという。

1941年(昭和16年)3月1日、軍務局軍務課長に就任。東條英機の側近として知られ、巷間「三奸四愚」と呼ばれた側近のうち四愚の一人とされる。陸軍省の軍務課長という立場でありながら、昭和天皇の開戦回避の聖旨に添って動く東條首相兼陸相や、開戦に慎重な武藤章軍務局長よりも、田中新一第一部長を筆頭に開戦に積極的な参謀本部を支持していた。自身も東條の前で日米交渉に消極的な意見を吐き、逆に東條に叱責されている。

1945年8月終戦。佐藤は最年少のA級戦犯となり、極東国際軍事裁判終身刑の判決を受けて服役し、いわゆるA級戦犯では最も遅くまで拘留され1956年(昭和31年)3月31日に釈放。その後は東急管財(現・東急ファシリティサービス)社長を務めた。また、自身の反米体験をもとにベトナム戦争反対運動に参加して話題になり、「共産党は無理だが、社会党公聴会に呼んでくれないものか」と語った事もある。開戦時の陸軍中枢においてアジアの植民地解放に最も熱心であり、死の直前まで面談者には大東亜戦争(太平洋戦争)は聖戦だったと主張していた。

板野友造#黙れ事件 - Wikipedia


加計学園獣医学部をめぐって、3年前の4月2日に愛媛県今治市の職員らが総理大臣官邸を訪問した際のやり取りが記された文書について、愛媛県の中村知事は県の職員が作成したものだと認めた一方、文書に面会相手と記載されていた柳瀬元総理大臣秘書官は事実関係を認めていません。


これについて、今治市の菅市長は16日午前、今治市役所で記者団の取材に応じ、職員が官邸を訪問したことは認めました。そのうえで、文書が見つかった後に、職員に聞き取り調査をしたことを明らかにし、このうち「首相案件」という文言については「職員からは聞いていない」と答えました。


しかし、それ以上の具体的な内容については、「国と県は一緒に取り組んできた仲間なので、迷惑をかけることができない」として、明らかにしませんでした。


また、柳瀬元総理大臣秘書官が国会に招致される動きがあることについて「市としてコメントできない。国会の中でやり取りすることだ」と述べました。


財務省の福田事務次官は複数の女性記者に対し、セクハラと受け取られる発言を繰り返していたと先週、週刊誌に報じられ、財務省は、16日、福田次官に行った聞き取りや今後の対応を発表しました。


まず聞き取りに対して、福田次官は、週刊誌で報じられたようなやり取りをしたことはなく、会食をしたおぼえもない、などと否定し、「報道は事実と異なるものであり、名誉毀損に当たることから提訴すべく準備を進めている」と答えています。


そのうえで自身の進退については「反省の上、緊張感を持って職務に取り組んでまいりたい」と答え、辞任する考えはないことを示しています。


一方、これに対して財務省は、聞き取りは福田次官の部下にあたる官房長が行ったことから、財務省として、客観性を担保するため弁護士に委託して福田事務次官への調査を続けることを発表しました。
また財務省は、福田次官への聞き取りだけでは事実関係の解明は困難だとして、財務省記者クラブに加盟する報道各社の中で福田次官と週刊誌報道のようなやり取りをした女性記者がいれば調査に協力してほしいと要請しました。

福田事務次官に関する報道に係る調査について

福田事務次官に関する報道に係る調査への協力のお願い

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