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コフィ・アナン氏は、1938年に西アフリカのガーナで生まれ、アメリカやスイスで経済学などを学んだあと、1962年に国連に入りました。


国連難民高等弁務官事務所などの勤務を経て、PKO=平和維持活動を担当する事務次長を務めたあと、1997年に黒人として初めて国連の事務総長に就任し、2期10年務めました。在任中は、エイズウイルスの感染拡大防止やテロ対策などに取り組み、2001年には国連とともにノーベル平和賞を受賞しました。


また、2003年に国連安保理の同意を得ずにイラク戦争に踏み切ったアメリカを国連憲章に違反するとして批判しました。


事務総長を退任したあとは、国連などの特使としてシリアのアサド政権と反政府勢力の調停にあたったほか、ミャンマー政府が設置した諮問委員会の委員長を務め、少数派のイスラム教徒・ロヒンギャの問題解決に取り組みました。


国連などによりますと、アナン氏は最近体調を崩したということで、18日、スイスの首都ベルンで亡くなったということです。80歳でした。


コフィ・アナン氏はイギリスの植民地支配にあった現在のガーナに生まれ、国連機関の要職を歴任したあと、1997年に、たたき上げとしては初めての事務総長に就任しました。


2期10年の在任中は、エイズウイルスの感染拡大防止やテロ対策などに取り組み、2001年には国連とともにノーベル平和賞を受賞しました。アナン氏は最近、体調を崩したということで18日、80歳で、亡くなりました。


アナン氏の死去を受けて、ニューヨークの国連本部には国連の半旗が掲げられたほか、歴代の8人の事務総長の肖像画のうち、アナン氏の肖像画には、追悼と書かれたリボンとともにバラの花束が飾られました。


パン・ギムン(潘基文)前事務総長は「国連の原則と考えを守る彼の展望と勇気は世界から記憶され、尊敬され続けるだろう」とする声明を発表しました。

アメリカのオバマ前大統領は「国連の使命を体現した外交官であり人道主義者だった。彼の誠実さと忍耐力、前向きさ、そして人間性は世界の隅々まで伝わった」とフェイスブックに投稿しました。


また、イラク戦争の開戦をめぐってアナン氏と対立したアメリカのブッシュ元大統領は、ツイッターで、「コフィは紳士で、国連のたゆみない指導者だった。彼の経験にあふれた言葉を世界は失うことになる」とその死を悼みました。


さらにアメリカのヘイリー国連大使は、「アナン氏は、国連の使命への情熱と献身を通じて、世界をより安全にするために生涯をささげた。個人の尊厳を守るための闘いを決して止めず、世界の連帯に向けてたゆまず取りくんだ」などと声明を発表し、アナン氏の功績をたたえました。

コフィ・アナン氏は1997年1月、国連職員からの「たたき上げ」として初めて第7代の国連事務総長に就任しました。1998年にはイラクの核開発疑惑が浮上し、アメリカとイギリスが武力行使の構えを見せる中、イラクに飛んでフセイン大統領に核査察を認めさせるなど外交手腕を発揮しました。


しかし2003年には、アメリカのブッシュ政権が国連安全保障理事会の決議がないままイラク戦争に踏み切り、「国際法を逸脱している」とアメリカを厳しく批判したものの国連の力の限界を露呈した結果ともなりました。


アメリカは、2005年には、国連改革の遅れを理由に予算の承認に反対していて、国連にとって、最大の国連分担金を拠出するアメリカとの関係は現在も、最大の課題になっています。


アナン氏が力を入れたのが、PKO=平和維持活動の改革です。PKOの責任者だった1994年、部族間の争いから80万人以上が犠牲になったルワンダ虐殺では、現地のPKO部隊から切迫した情勢に関する情報を得ていたにもかかわらず、適切に対応しなかったとされ、後にアナン氏自身が責任を認めています。


こうした反省に立って、アナン氏は、事務総長就任後の2000年、PKOの改革に乗り出し、停戦の監視に加えて、市民の保護を強化する現在のPKO活動の基礎を作りました。2005年には紛争終結後の復興を支援する多国間の枠組み、「平和構築委員会」を設置し、これは、紛争の予防に力点を置くグテーレス事務総長に引き継がれています。


また、1998年に提唱した「グローバル・コンパクト」は政府だけでなく、企業や市民にも世界の平和と発展に貢献してもらおうと、人権の擁護、労働条件の改善など10項目について参加や協力を呼びかけた取り組みです。この取り組みは、国連が定める2030年までの持続可能な開発目標=「SDGs」の原型になったと評価されています。


人権問題やエイズ対策などに取り組んだアナン氏は、2001年、国連の事務総長としては2人目となるノーベル平和賞を受賞し、受賞の演説で「民主主義を阻むのはあらゆる手段を使って自分の地位を守ろうとする権力者の欲望だ」と述べています。


事務総長を退任したあとも、国連などの特使としてシリアのアサド政権と反政府勢力の調停にあたったほか、ミャンマー政府が設置した諮問委員会の委員長を務め、少数派のイスラム教徒・ロヒンギャの問題解決に取り組みました。


去年10月に国連の安全保障理事会で開かれたロヒンギャ問題の会合の後には久しぶりに報道陣の前に姿を見せ、国際平和に関与し続ける姿勢を印象づけていました。