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御祭神、藤原旅子は第五十代桓武天皇の皇妃にして、第五十三代淳和天皇の生母であり、太政大臣 藤原百川(ふじわらのももかわ)の女(むすめ)である。 往昔、此の龍華の荘(大津市伊香立途中町、上龍華町、下龍華町)は藤原氏の食邑地にして、当時其の邸宅あり、旅子此処に生まる。

平治の乱(西暦一一五九年)起こりし時、戦に敗れし源義朝の一行は八瀬大原街道を敗走、ようやくにして此の還来神社社頭に着き、白羽鳴鏑の矢を献じ武運長久を祈願する。此の一行に有りし源頼朝、落伍し途中の山に迷い乍らも、やがて還来神社に到着、源氏の再興を祈願し、東国へと走る。後年、頼朝源氏の頭領として君臨せし時、此の還来大明神を忘れ難く神田を寄与す。

故郷に還り来れるとの此の神社の由緒に鑑み、その後、日清、日露の戦いに参戦する人、此の社に参拝をなし、無事帰還を祈願さる。
太平洋戦争に至るや、参拝者引きも切らずとかや、又源頼朝白羽の矢と共に、馬に付けられし鈴をも奉納されし古事を以て、祈願者大小の鈴を奉納さる。

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 太平洋戦争時には、江若鉄道(現在のJR湖西線和邇駅から、バスなどの交通機関がなかったため、神社までの約六キロの道は、お参りをする人が、まるでアリのように続いていたという。
 同神社の宮司も兼務する稲岡宏雄琴神社宮司(七〇)=雄琴二丁目=が語る「当時は、神主が三人おり、交代で祈願をしていたと聞く」という話が、参拝者の多さを物語っている。
 「『天皇陛下万歳』という雰囲気の中で、おおっぴらに帰ってきてほしいといえない。そんな中で、家族が息子が無事に帰ってこられるようにと最後にこの神社をすがったのだろう」(稲岡宮司)。総代を務める宮垣慶二さん(七三)=伊香立途中町=は長兄がフィリピンに出征する際、見送った。「二度と戻れないと決意していたようにみえた。そんな兄の背中をみて、幼いながらに無事に帰ってほしいと思った」と振り返る。
 現在は、海外に旅行や出張に赴く際、県内や近隣府県から年間百件ほどの祈願参拝があるという。

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江若鉄道の当初の路線計画では、浜大津から福井県の三宅に至る本線のほかに、当駅から分岐して途中越をトンネルで抜け、京都府の大原・八瀬を経て二条駅に至る支線を敷設する計画が存在した。

駅があった場所は江若鉄道廃線後に開業した湖西線和邇駅の西寄りにあたる。

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