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結果的に織田・徳川側が1,100余りを討ち取って勝利した。合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせる。

信長は小谷城から50町ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番として横山城に入れた。

この戦いには敗れたがこの時点では浅井・朝倉連合軍にはまだ余力は残っており、近江、越前周辺では比叡山の僧兵衆や石山本願寺一向一揆と手を結び、湖西の志賀郡などで攻防戦が繰り返された(志賀の陣)。これらの戦いでは織田方の被害も軽微なものとはいえず、信長の実弟織田信治をはじめ森可成坂井政尚などの諸将を失った。

信長は浅井・朝倉を支持する比叡山を焼き討ちするなど、周辺敵勢力の掃討に打って出た。また、軍事力だけでは攻略は困難と判断した信長は諜略によって浅井家の内部分裂を謀った。その代表例が姉川の合戦で最も武功をあげた磯野員昌の離間である。姉川の合戦により領国が南北に分断されてしまっていたため犬上郡佐和山城を守備する磯野員昌らは孤立してしまい物資の補給すらままならない状態であった。そこに目をつけた秀吉が浅井家家中に員昌内通の風説を流し、長政らに員昌に対する疑念をもたせることに成功、長政は再三にわたる員昌からの物資補給の要請をすべて拒絶し、兵糧が残り少なくなった員昌はついに織田方に投降し浅井滅亡の流れを決定付けることとなった。次第に弱体化していった浅井・朝倉両氏は大局的な戦略に方向転換し甲斐の武田信玄本願寺顕如らと組み信長包囲網を形成していく事になる。

上坂神社

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16日、近江で浅井・朝倉連合軍が信長の背後を突くべく進軍を開始している。この報せを受けた宇佐山城主・森可成は野府城主・織田信治、青地茂綱らと共に交通の要所である坂本を先に占領して街道を封鎖、連合軍の南進妨害を試みる。そして16日に緒戦においては連合軍を撃退する。

しかし、顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わると、形勢は逆転。

続いて浅井・朝倉連合軍は宇佐山城への攻城戦に移行。守備側は1000人、攻城側は3万人と劣勢であったが、可成の重臣各務元正、武藤兼友、肥田直勝、林通安らが奮闘して持ちこたえた。連合軍は城攻めを諦め、21日に逢坂から京都の山科方面まで出軍してきた。

柴田勝家が信長の本陣に出向き、京都に戻るように進言した。

23日、信長は全部隊に撤退命令を出し、足利義昭と共に帰京。これを知った浅井・朝倉連合軍は比叡山に後退。翌24日、信長は逢坂を越え、近江へと向かった。戦いは「志賀の陣」へと続く。

三人衆軍には27日、篠原長房が中心となり、細川真之、三好長治、十河存保ら、阿波・讃岐の兵2万からなる大援軍が兵庫浦に上陸、翌28日、織田軍に属していた瓦林城、越水城の城主・瓦林三河守を討ち取り、10月1日野田城・福島城に入城する。ここに至って信長は、三人衆、本願寺浅井長政朝倉義景六角義賢ら連合軍との和睦を模索する事になる。義昭は三人衆に対しては敵対心があったようではあるが、顕如に対しては開戦当初から一貫して和平を求めており、信長はこれを利用し朝廷工作を実施し、正親町天皇より「講和斡旋を希望す」という言を得て、11月30日に各陣営で話し合いが行われ、12月14日に和睦が成立し、長政、義景、六角連合軍も撤兵する。この時、三人衆と篠原長房は、旧敵であった三好義継、松永久秀とも和睦しており、その後、両者は共闘することとなった。この戦い以降、信長は浅井・朝倉・六角連合軍の討伐にしばらく忙殺される事になる。

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元亀元年(1570年)9月16日から12月17日にかけて発生した織田信長浅井長政朝倉義景比叡山延暦寺の戦いを言う。

永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じて上洛し、義昭を征夷大将軍に就けることに成功した。これにより、室町幕府は一時的に再興されることになった。将軍の後見人という立場となった信長は、かねてより良好な関係ではなかった朝倉義景との対立を深め、元亀元年(1570年)4月20日に義景の領国たる越前へ侵攻したが、盟友・義弟の浅井長政が朝倉方についたことにより撤退(金ヶ崎の戦い)。だが、約2ヶ月後の6月28日に発生した姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍に打撃を与えることに成功した。

一方、足利義昭とかねてより敵対していた三好三人衆は8月20日になって摂津の野田城、福島城に拠って挙兵した。信長はこの挙兵に対して天王寺に出陣し、付け城を築くと共に香西佳清と三好政勝を寝返らせて有利に戦いを進めていた。しかし、その途中の9月14日になって石山本願寺法主顕如が蜂起したことにより、戦況は予断を許さなくなり、信長は摂津戦線に釘付けにされることになった。この戦いを野田城・福島城の戦いと言う。

こうして摂津戦線で信長が釘付けとなっていることを奇貨として、浅井長政朝倉義景は京都に向けて押し出すべく、手薄な琵琶湖西岸を南下したことにより、志賀の陣は始まった。

しかし、織田方の防衛線を破る事には成功した浅井・朝倉勢は粘る宇佐山城攻略を諦め大津へ進軍。21日には醍醐、山科まで侵攻し、京都まで迫った。

22日になって、信長のもとに「浅井・朝倉勢が織田方の防衛線を突破し京都に迫っている」という知らせが届いた。信長は京が浅井・朝倉勢の手に落ちた時の政治的影響を考え、摂津戦線から撤退することを決断した。翌23日には柴田勝家和田惟政を殿とし、京都に撤退した。途中、淀川の下流の江口で、一揆勢が蜂起して船を隠してしまったが、信長は川を上流から下流まで見て回り、浅い部分を渡るよう指示し、無事に渡ることができた。その日は本能寺に宿泊したようである。

一方、信長が転進してきたことを知った浅井・朝倉勢は比叡山へ後退。24日、信長は逢坂を越え、坂本まで来て比叡山を包囲した。信長は比叡山延暦寺に対して「織田方につくならば織田領の荘園を回復するが、それができないなら中立を保ってほしい。もし浅井・朝倉方につくならば焼き討ちにする」と通告したが[2]、延暦寺からの返事はなかった。

浅井・朝倉軍は延暦寺の支援のもと、比叡山に籠城することになった。

信長が比叡山包囲のため、身動きがとれなくなっていることを知った各地の反織田勢力はこの機に一気に挙兵することになった。

11月末になり、包囲は2ヶ月に及んだが依然として比叡山に籠る浅井・朝倉軍は降伏する様子を見せなかった。しかし、信長は反織田の勢力が連なるのを問題視し、11月30日、朝廷と足利義昭を動かして講和を画策した。一方の義景も豪雪により比叡山と本国の越前の連絡が断たれるという問題があり、継戦に不安を持っていた。この為、12月13日になって朝廷と義昭の仲介を受け入れ、信長との講和に同意した。翌14日、織田軍は勢田まで撤退し、浅井・朝倉軍はほぼ3ヶ月ぶりに高島を通って帰国、ここに志賀の陣は終了した。

12月に信長が義景に送った起請文には「上意のため」という足利義昭の関与を示す文言はあるが、天皇を示す文言は見当たらない。これは勅命の対象が延暦寺だけに限定されていたといえる。また織田と朝倉の和睦にもかかわらず、延暦寺、浅井、本願寺についての条項が含まれており、元亀争乱での反信長陣営の領袖が義景であったことを示している。

信長は拠点は守りきったものの、当初の目的である野田・福島攻めを中断された上、弟の信治・信興や家臣の森可成坂井政尚といった武将を失う結果に終わった。一方の義景は、信長を追い込みながら、豪雪のために撤退することになり、領土を得る事はできなかった。また、延暦寺はこの戦いにおいて信長の通告を無視して浅井・朝倉方についたことが翌年の比叡山焼き討ちにつながることになる。なお、近江守護であった六角義賢が近江の守護所である観音寺城を奪還できないまま信長と和睦したことで、大名としての六角氏は事実上滅亡したとする評価もある(六角義賢は以後も反信長の兵を挙げるがその勢力は程なく消滅する)。

この戦いの隙をついて各地で反織田の挙兵があったこと、そして足利義昭が信長の影響下から脱そうとしてこれらの勢力を糾合し信長包囲網を敷いたことにより、以後信長はこの包囲網と戦う事を余儀なくされた。この状況は元亀4年(1573年)4月に包囲網の一角を担った武田信玄が病死するまで続くことになる。

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