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寿永2年(1183年)12月、梶原景時の讒言によって頼朝から疑われた広常は暗殺されることになる。景時と双六に興じていた最中、景時は突然盤をとびこえて広常の首を搔い切ったとされる(『愚管抄』)。嫡男・上総能常は自害し、上総氏は所領を没収され千葉氏や三浦氏などに分配された。この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。広常の死後、千葉氏が房総平氏の当主を継承した。

頼朝に宣旨が下って東国行政権が国家的に承認されるに及び、元来頼朝にとっての最大の武力基盤であった広常がかえってその権力確立の妨害者となっていたことが謀殺に繋がったといえる。

慈円の『愚管抄』(巻六)によると、頼朝が初めて京に上洛した建久元年(1190年)、後白河法皇との対面で語った話として、広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいたため、殺させたと述べたことを記している。

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