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#階級社会

「(注:言語能力の訓練は意識されづらいが)中流家庭の子は、大人から『なんで?』のような説明を求められることが多いと報告されています……親と日常会話をすることが、学校での評価に繋がる言語的な訓練になっているわけです。一方、社会経済的に恵まれない家庭では、親から『これ、食べなさい』『早く寝なさい』『お風呂に入りなさい』という指示が比較的多く、子どもが何をどう考えているのか言語化して説明することを求めない傾向にあります」(※4)。

こういった知的な習慣や振る舞いの微妙な格差が子ども時代から無数に積み重なり、言語能力の格差、ひいては知的な格差を生み出しているのだろう。

ならば、知性や学歴を自らの達成としてひけらかすことはできないはずだ。それは自力で手に入れたものとは限らないのだから。

重要なのは、階層によって異なるのは言葉だけではなく、価値観や認識にも大きな違いがあった点である。法学者の川島武宜は、第二次大戦中に農村に食料を買い出しに行った大学教員婦人と農民との間での、「契約」意識のズレを記している。夫人は農民に、次に村を訪れるまでの芋の取り置きを頼み合意したが、いざ行ってみると「『そのいもは、ほしいという人があったから、もう売ってしまって、ないよ』と言って、別にすまなそうな顔もしない」。夫人は約束を破ったことでその農民を非難したが「のれんに腕押し」で、むしろ逆に「非常識」だとして陰口を叩かれたという(※11)。

川島は(武士階級出身の)福沢諭吉の自伝を引きつつ、こういった農民とは異なり、武士階級では「契約の成立がきわめて明確且つ確定的なものとして意識されていた」とも書いている。例外的なエリートだった戦時中の大学教員の妻と、当時の日本のマジョリティだった農民との間にも、おそらく出自の違いはあっただろう。価値観や認識の、つまり知的習慣の階層差が江戸時代から明治時代、そして昭和へと引き継がれてきた可能性は高い。

そういった知的格差は、学歴による分断がある今日の社会にも残っているだろう。社会学者たちが指摘する教育の格差や、新井紀子が見出した大学のレベルによる学生の読解力の格差は、今の日本社会にひそむ大きな知的格差の氷山の一角かもしれない。学校の偏差値によって学生たちの振る舞いや雰囲気に言葉にし辛い印象の違いがあると感じたとしても、その背後にあるのは単なるペーパーテストの成績の違いではなく、もっと大きな知的格差の体系ではないだろうか。

#滋賀作

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阿難尊者がお釈迦様に「善き友と交わることは悟りへの道の半分を進んでいると思いますが、如何でしょうか?」と尋ねたのに対して、お釈迦様は「いいや。善き友と交わることは悟りへの道の全てである」と答えられたという話もあります。ことわざに「朱に交われば赤くなる」とあります。善き友と交わればその影響を受けて自らも善き方向に磨かれていきますが、悪友と交わればその影響を受けて悪い習慣が身についていきます。

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#テレビ