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#大丸めがね( 冨田有紀)

清少納言が『枕草子』を書いているときに伊周は存命ですし、定子が産んだ敦康親王(あつやすしんのう)を一条天皇の後継者にしたいという思惑がありますから、『枕草子』は美化に美化を重ねて書かれていると思います。

小右記』には、例えば、父・道隆とその周辺が伊周への権力継承を強く望み、母方の高階氏が道隆の病中に代理として内覧に留められた伊周を一気に関白にしてしまおうと陰謀を巡らせ、詔(みことのり)を作り変えようとしたがすぐにばれてしまったというような記録もあります。まあ、身内の中では非常に立派な人物という評価だったのだと思いますけれども、公卿社会では嫌われるタイプですね。その都度、実資が怒っていますが、当然だと思います。

道長政権ができて以降は非常に仲が悪く、確執が絶えなかったというように古記録には書かれていますが、それまではそれほどでもないと思います。転機となったのは、正暦五年(994)8月28日の伊周の内大臣への就任。このときに大臣大饗(だいきょう)という宴会をやって公卿を呼ぶんですけれども、道長をはじめ、伊周に官職を超えられてしまった人がみんな欠席をしているんですよ。ですから、この時点で関係はだいぶ悪くなっていると思います。

官職によって違うのですけれども、中央官を何年か務めて、上日(じょうじつ/出勤した日)を満たし、業績をきちんと挙げている人が、勤務している役所の中で順番(「巡」)に申文を出すことができます。そこまで行くのがまず大変なんですね。それで、次にどこの受領が空くのかはわかっていますから、その中で自分の位、業績、勤務している役所の格によって、「自分はどこへ行きたい」と申文を書きます。

受領になれる資格を持つ貴族は、かなりの人数がいますからね。その競争を勝ち抜くのは大変なんです。

紫式部は20代後半まで未婚ですけれど、これは父・為時が長らく無官だったからです。「藤原兼家や道隆の妻もわりと中級貴族の娘ではないか」と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、紫式部とは置かれている状況がまったく違います。兼家や道隆の妻は、ほとんどが受領の娘なんですね。つまり、お父さんは受領であり、お金があります。一方、為時はすごく貧乏なんです。六位で無官でしたから、定収入はなかったと思います。そんな家に婿にくるような人はいません。紫式部も不安というより、あきらめていたと思います。

長徳2年(996)1月16日、朝廷を震撼させるとんでもない事件が起こりました。内大臣藤原伊周とその弟の中納言・隆家が、藤原斉信の父である故・為光の屋敷で花山院と遭遇。従者同士が闘乱に及び、花山院に随身していた童子二名が殺害され、その首が持ち去られます。いわゆる長徳の変の発端です。

藤原実資の日記『小右記』によると、同年7月24日に公卿(くぎょう)が会議を行う陣座(※注1)において、道長と伊周が口論に及んでいます。また7月27日には、道長と隆家の従者同士が七条大路で闘乱を起こし、その報復のためか、8月2日には隆家の従者が道長の従者を殺害する事態にまで至っています。


【新楽府(しんがふ)】
中国、唐の時代に新しく楽府題(がふだい)を立てた詩のこと。楽府とは、漢詩の一形式。

【大国(たいこく)】
律令制において、面積や人口などによって諸国を大・上・中・下の四等級に分けたうちの、第一位の国。大和・河内・伊勢・武蔵・上総・下総・常陸・近江・上野・陸奥・越前・播磨・肥後の十三か国。

【源 高明(みなもとのたかあきら)】
醍醐天皇の第十皇子。源俊賢と明子の父。

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巨人は連勝が「4」で止まり、一日で首位から転落しました。

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