【速報 JUST IN 】渡辺恒雄さん死去 98歳 読売新聞グループ本社の代表取締役主筆https://t.co/g7LZKubucu #nhk_news
— NHKニュース (@nhk_news) December 19, 2024
読売新聞グループ本社の代表取締役主筆で、政界やプロスポーツ界にも影響を与えた渡辺恒雄さんが19日未明、都内の病院で亡くなりました。98歳でした。
目次
渡辺恒雄さんとプロ野球
《球界からは…》
巨人 長嶋茂雄終身名誉監督「突然の訃報 頭は白紙」
《政界から追悼の声》
《新聞協会や作家など受け止め》渡辺さんは大正15年に東京で生まれ、昭和25年に読売新聞社に入社し、政治部の記者として自民党の大野伴睦初代副総裁や中曽根康弘元総理大臣などの取材を長く担当し、政治部長や論説委員長も務めました。
平成3年に社長に就任し、その後、読売新聞社が持ち株会社制に移行したのに伴いグループ本社の社長となり、平成16年からは12年余りにわたって会長を務めました。
平成11年から4年間は日本新聞協会の会長にも就いています。
スポーツの分野でも影響力を持ち、平成8年にはプロ野球・巨人のオーナーに就任し、新しいドラフト制度の導入などプロ野球界全体の指導的な役割を果たしたほか、平成13年から2年間、大相撲の横綱審議委員会の委員長を務めました。
平成20年には旭日大綬章を受章しています。
読売新聞によりますと渡辺さんは先月末まで定期的に出社し、役員会などに出席していましたが、今月に入って体調を崩し、19日未明に肺炎のため都内の病院で亡くなりました。98歳でした。
渡辺恒雄さんは平成8年にプロ野球・巨人の球団オーナーに就任しました。
12球団のオーナー会議でも中心人物として球界に大きな発言力を持ち、ドラフト制度の改革やフリーエージェントの導入など、球界の制度改革に主導的な役割を果たしました。
20年前の平成16年に近鉄とオリックスが合併し、その後、楽天が誕生した一連の球界再編では、1リーグ制移行に向けた構想の中心となり、2リーグ制の維持を求めた選手会の反発に対して、「たかが選手」などと発言して物議をかもしたこともありました。
そのさなか、巨人がドラフト会議で獲得を目指していた大学生に現金を渡していたことが明らかになり、道義的な責任をとって、巨人のオーナーを辞任しましたが、その後1年で巨人の球団会長として球界に復帰しました。
平成23年には、当時の球団代表が、球団会長には権限がないのにもかかわらず内定していたコーチ人事を覆されたと厳しく批判すると、その後、巨人のすべての役職を解任されるなど球団内での絶大な権力を見せました。
平成26年には巨人の最高顧問に就任し、翌年に発覚した野球賭博問題を受けて、当時のオーナーなどとともに引責辞任しましたが、その後も、球界での存在感は際立ち、巨人の球団運営にも強い影響力を持ち続けました。
一方で、普段はユーモアがあり、報道陣とのやりとりでは冗談を話して記者を笑わせる一面もありました。
ことし3月にはシーズン開幕前に行われる恒例の激励会で車いすに乗って登壇し、阿部慎之助監督をはじめ選手たちを激励していました。
《球界からは…》
プロ野球、巨人の長嶋茂雄終身名誉監督は「突然の訃報でした。しばらくは何が起こったのか、頭は白紙の状態でした。古く長いお付き合いで、巨人を離れてもたくさんの思い出があります。いま、何を話せばよいのか、巨人が勝った時の渡辺さんの笑顔しか浮かんできません」と球団を通じてコメントしています。
巨人 阿部監督「叱咤激励 ジャイアンツへの愛情感じていた」
プロ野球・巨人の阿部慎之助監督は「入団当時から温かく見守っていただき、感謝しかありません。叱咤激励の言葉からはいつもジャイアンツへの愛情を感じていました。今シーズン、主筆に日本一の報告をできなかった悔しさを忘れず、来シーズンこそ必ず日本一を勝ち取りたいと思います。心よりご冥福をお祈りいたします」と球団を通じてコメントしています。
梨田昌孝さん「野球界への功績 語りきれない」
渡辺恒雄さんの死去について、プロ野球で球界再編が行われた2004年当時、近鉄で最後の監督を務めた梨田昌孝さんは「野球界への功績は語りきれないくらいあり、改革もしたし、巨人というすばらしいチームを引っ張ってきた。98歳という年齢ながらつい最近まで仕事をしていたと聞き、精神的にも身体的にも強い人だったと感じる。野球界だけでなく政界など各界に影響を与えてきた方だから、ゆっくり休むというよりも天国から野球界のことを見守っていてほしい」と話していました。
《政界から追悼の声》
石破首相「日本の歴史観について教えてもらうこと多かった」
石破総理大臣は総理大臣官邸で記者団に対し「偉大なジャーナリストだった。私も議員になって以来、何度もけいがいに接する機会があった。特に先の大戦について、あるいは日本の歴史観について教えてもらうことが多かった。ことしになってから自民党の派閥についての本を読み返したが、自民党とは何か、派閥とは何か、これからどうあるべきかについて多くの示唆に富む本だった」と述べました。その上で「日本の政治がこういう状況にあり、党のあり方、民主主義のあり方、あるいは日本のこれからの平和国家としての歩みについて、まだまだ教えていただきたかった。ご冥福をお祈りする」と述べました。
岸田前首相「1つの時代が終わった」
自民党の岸田前総理大臣は記者団に対し「渡辺主筆は私の父の高校の同級生であり、若いころから親しくご指導いただいた。私にとって大変大きな存在であり、言論人として、大きな影響を日本の戦後の歴史に残した。1つの時代が終わったと感慨深く感じている」としのびました。
その上で「国会議員としてまだ駆け出しのころ、頻繁に読売新聞社に伺い、渡辺氏から直接、話を聞かせていただいた。1回行くと1時間たっぷりといろいろな話を聞かせてもらった。優しい人柄だった」と述べました。
さらに「総理大臣在任中もたびたびご指導いただき、ことしの8月に私自身が退陣を表明したあと、電話で話したのが最後だった。私の政治人生にとって大切な方だった」と述べました。
自民 森山幹事長「わが国の発展に大きく寄与した」
自民党の森山幹事長はコメントを発表し「数々の要職を歴任され、活字文化の振興や健全な販売競争の実現に尽力されるなど新聞事業の発展に大きく貢献してこられた。数々の提言報道によって言論機関の新たな境地を開くなど内外で幅広い功績を残し、こんにちのわが国の発展に大きく寄与した方であることは間違いない。わが党にとっても長きにわたって様々なご指導を頂いた方であり、訃報に接し大変残念だ」としています。
自民 山崎元副総裁「あのような『ドン』 二度と現れない」
長年親交のあった自民党の山崎拓 元副総裁はNHKの取材に対し「保守思想の持ち主で、特に小泉政権のとき、ご意見番としてお世話になった。最近は会う機会がなかったが、亡くなったと聞いて残念というよりさみしい感じがする。記者のなかでも、あのような『ドン』は二度と現れないのではないか」と述べました。
立民 野田代表「日本の言論界をけん引してきた巨星」
立憲民主党の野田代表はNHKの取材に対し「大変ショックを受けた。長年にわたって日本の言論界をけん引してきた巨星であり、心からお悔やみを申し上げたい」と述べました。
その上で「2012年の8月に総理大臣公邸にお招きして、いろいろ相談ごとがあり、会食をしたことがあった。歴代の内閣総理大臣とかなり深くたくさんお付き合いしてきた方だが、きわめてうれしそうに『初めて総理大臣公邸に来た』とおっしゃっていた、その笑顔を忘れることができない」と述べました。
また「ちょうど尖閣諸島の国有化をやろうとしている時に、当時の東京都の石原知事が反発していて、抑えてくれる人は中曽根元総理大臣か渡辺主筆のどちらかではないかと思い、渡辺主筆にお願いをして見事に収まったことがあった。ただそのことは渡辺主筆ご自身はその後も全然、外で触れることはなかった」と振り返っていました。
国民 玉木代表「まさに『巨星墜つ』」
役職停止中の国民民主党の玉木代表は旧ツイッターの「X」に「まさに『巨星墜つ』という印象だ。戦後の政治やメディアに大きな影響を与えた人物であることは衆目の一致するところで、衆議院選挙後の政治状況やわが党のあり方についてご意見を伺いたかったがもはやかなわず残念だ。心からお悔やみ申し上げる」と投稿しました。
《新聞協会や作家など受け止め》
日本新聞協会 会長「活字文化の振興に積極的に取り組まれた」
日本新聞協会の中村史郎会長は「ご逝去の報に接し、謹んで哀悼の意を表します。渡辺氏は日本新聞協会の会長、理事として新聞界の発展に尽力されました。協会長として新聞経営の根幹に関わる著作物再販制度の維持に全力を挙げられるなど、活字文化の振興に積極的に取り組まれました。あらためて長年の新聞界へのご貢献に感謝申し上げます」とコメントしています。
ノンフィクション作家 魚住昭さん「メディアの姿勢を変えた」
「渡邉恒雄 メディアと権力」の作者でノンフィクション作家の魚住昭さんは「著書を書く前に3、4回にわけて10時間以上インタビューをしました。取材に対してまともに応じてくれ、私の取材人生で印象深い人です。会った際の印象は人の気をそらさない、茶目っ気もあって、時には笑わせてもくれる、勉強をされている方で話も知的で、魅力的でした」と話しました。
そのうえで「日本の新聞社は自民党に対して批判的で、読売新聞も含めて反自民・反権力の姿勢でしたが、渡辺さんが読売の実権を握ってからは、自民党とタイアップしながら反自民から親自民になりました。そういうメディアのあり方をある意味成功させました。戦後のメディアにとってかなり大きな出来事でメディアの姿勢を変えた、そういう意味を持ったと思います」と話しました。
日本の政治外交史が専門で、東京大学名誉教授の御厨貴さんは「私が渡辺さんの本を書いてから20年ほどたつがその間もずっと健在だったことはすごい人だと思う。新聞界の権力者として長年にわたってもたらした功罪はとても大きかった」と話しました。
渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆が死去、98歳https://t.co/g75mWoHho2#ニュース
— 読売新聞オンライン (@Yomiuri_Online) December 19, 2024
読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄(わたなべ・つねお)氏が19日午前2時、肺炎のため、都内の病院で死去した。98歳。葬儀は近親者のみで営まれる。喪主は長男、睦(むつみ)氏。後日、お別れの会が開かれる予定。
「終生一記者」貫く…渡辺恒雄主筆死去、提言報道や戦争責任追及を主導
渡辺氏は11月末まで定期的に出社し、役員会や社論会議に出席して大所高所から本社の経営や社論を総覧していた。今月に入って体調を崩し、病院で治療を受けていたが、亡くなる数日前にも社説の原稿に目を通して点検するなど、最後まで主筆として執務を続けた。
渡辺氏は東京都出身。東京大学を卒業後、1950年、読売新聞社に入社し、ワシントン支局長、編集局総務兼政治部長、専務取締役主筆兼論説委員長などを経て、91年に代表取締役社長・主筆に就任した。2002年の持ち株会社制移行に伴い、グループ本社代表取締役社長・主筆を2年近く務めた。その後、同会長・主筆を経て、16年から現職にあった。
全国紙としての基礎を確立し、発行部数を日本一、世界一に押し上げて「販売の神様」と称された故・務台光雄名誉会長の下で経営を学んだ。渡辺氏の社長在任中、読売新聞の発行部数は1994年、初めて1000万部を突破した。2001年1月には、1031万91部の最高部数も達成している。
渡辺氏は、読売新聞の論調として、中庸で現実的な視点に立った自由主義的保守路線を確立し、数々の「提言報道」で、言論機関としての新たな境地を開いた。特に1994年には「憲法改正試案」を発表し、自衛力保持や環境権の新設、憲法裁判所創設などを明記し、それまでタブー視されていた憲法論議に大きな一石を投じた。
99年から2期4年間、日本新聞協会会長を務め、活字文化の振興や、戸別配達維持による健全な販売競争の実現に尽力した。2000年には、54年ぶりに新たな「新聞倫理綱領」を制定。「人権の尊重」を新たに項目に立てるなど、すべての新聞人が守るべき基本精神をうたい、報道界の倫理水準向上に貢献した。また同年、読売新聞の報道・言論活動の方向性を定めた新しい「読売信条」で、世界の平和と繁栄に貢献する「国際主義」などを打ち出した。
1996年から約8年間、読売巨人軍オーナーを務めた。大相撲の横綱審議委員会委員長や、政府の財政制度審議会委員、有識者会議「情報保全諮問会議」座長などを歴任した。96年から98年までは政府の行政改革会議の委員として、当時の1府21省庁を1府12省庁に再編する報告書のとりまとめに尽力した。
中曽根康弘氏、安倍晋三氏、岸田文雄氏ら歴代首相と親交が深く、政界はもとより各方面に強い影響力を持っていた。
2007年には、言論・新聞事業を通じて社会文化に顕著な功績のあった新聞人に贈られる新聞文化賞を受賞。08年の秋の叙勲では、「多年にわたり新聞事業に携わり、業界の発展に尽力するとともに、報道文化の発展に貢献した」などとして、旭日大綬章を受章した。
また、1996年には、フランス政府から芸術文化勲章最高位の「コマンドゥール」を授与され、2007年には、第54回カンヌ国際広告祭の「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」にも選ばれた。
晩年にはNHKの長時間インタビューに応じ、内容は20年から21年にかけて、「昭和編」「戦争と政治」「平成編」と3回にわたって放送され、大きな反響を呼んだ。今年5月には若き日に執筆した「派閥と多党化時代」が復刊された。
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細川元首相 企業・団体献金“法律施行5年後に全面禁止の認識”https://t.co/WnllXDMXEI #nhk_news
— NHKニュース (@nhk_news) December 18, 2024
30年前に政治改革に取り組んだ細川元総理大臣は、企業・団体献金の扱いについて、細川内閣で成立した法律の施行から5年後に、全面的に禁止することになっていたという認識を示しました。
30年前の1994年に政治改革に取り組み、当時、野党だった自民党の河野総裁と合意した細川元総理大臣は18日にNHKのインタビューに応じました。
この中で、企業・団体献金の扱いについて、「細川政権で企業献金の禁止を目指したが、当時の与党内に『すぐに禁止すべき』という意見と『少し時間をおいてやったほうがいい』という意見の2つがあり、調整の結果、全面禁止は法律の付則で『5年後に見直す』とした。『激変緩和』の意味で少し時間を置いて禁止するというものだった」と述べました。
そのうえで、「素直に考えれば、誰が考えても政党交付金との二重取りになる訳で、企業献金を正当化している石破総理大臣の言い方は少し気になるところだ」と指摘しました。
細川内閣で成立した政治資金規正法の付則には、企業・団体献金に関連し、法律の施行後、5年後をめどに見直す内容の規定が盛り込まれましたが、政党や政党支部が企業・団体献金を受けることは認められています。
衆院政倫審 福田氏 “派閥の指示で秘書が収支報告書に不記載”https://t.co/PAyrOIyIE3 #nhk_news
— NHKニュース (@nhk_news) December 19, 2024
#政界再編・二大政党制