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テンプレと天然のあいだ

はたして私は、マトリクスの外にいられているのでしょうか、中におるのでしょうか。

 映画『マトリックス』に出てきた幻想領域の中にいる。
養老孟司内田樹茂木健一郎もっちー小飼弾finalventに嵌められて。
以前から言ってる「幻想領域」とは比喩的に言ってるのではない。
 狭義の神業的には昨年1月に完成しているのだけれど、ちゃんみつ君の正常化、つまり、生命進化の過程への復帰が果たされていない。
 ぼくが関わる以前から監視されていたようなので、そのままで死ぬとまずいと思うのだが、神業的には見捨ててもいいようなんです。
 しかし、早々に完成はしたけれども、2025年までが物領賢者界の仕組みに割り当てられているので、学問的に正すというこの仕組みの性質上、今日のわが国の置かれた状況との関係で、ちゃんみつ君の救済を通して思想の混乱を収拾する一助になればと思ってこのブログをやってるんです。
 相変わらず現代哲学の悩み深い理屈の世界に止まっているけれども、そのような囚われから脱するのが本当の哲学なんですよ。理屈もそのために用いなければならない。それを、わからん者同士がわかった風な態度をとってデタラメを交換しあって更に悩みを深めていってる。
 しかも、ポストモダンというのは嵌めるための思想だから、定義も論理も歪めて外に出られなくしている。
 そこで、このブログは読んでるうちに抜けられるように構成している。だから、読みながら現代哲学の世界から離れるように考えていってほしいのです。
 木田元はまともなことを言うておるようだが(どこが正しくてどこが間違っているかはもうわかると思う。)、その辺に出回ってる三流哲学者の内輪の本については何で手を出すかなあと思う。

個性・自分らしさって何?
「根本的疑問、考えてこそ」
大阪大学教授 石黒 浩さん
人間にしかできないことで最も重要なのは、この世の根本的な疑問を考えること。すなわち物事の起源とは何か、そして人間とは何なのか。こうした疑問に突き動かされて行動する時だけが、人間が人間らしい瞬間だと私は考える。
 さらに言うなら、人間とは何なのかという問いかけに対し、自分なりの揺るぎない見地を確立し、それに従って生きている人間こそが「個性的」と言うに値するのではないだろうか。

日経新聞夕刊)

ちゃんみつ君

嘘哲学を捨てたまえ。
それを捨てることが即ちケガレを落とすことなんだよ。
どうやら哲学科では哲学とは考え方のことで、論理や定義を弄んで他人をたぶらかすことだと教えているらしい。しかも、それが正しいことなんだと。
しかし、論理的思考力を失い、言葉を別の意味で認識するようになると、真理を追究できなくなるよ。

非社会性?

その宮台氏が、紹介を超えて自分の言葉で語り始めると、こういうあらぬ方向に漂い出します。

素直に社会政策をやってる人間のように解釈するんじゃなくて、気の利いた風な言葉をちりばめた今様迷宮社会学風に解釈してしまっている

これこそまさに、「社会」を問題にすべき地点で「個人」を問題にするという、一番駄目な議論そのものじゃないですかね。

http://www.bk1.jp/product/03002290

『荀子(下)』
P212

わが身の修養を軽視して財貨を重視し、禍害におちいるようなことを平気で行いながらさまざまにいいつくろって何とか害をまぬがれ、善いか悪いか正しいか否か実情を顧慮しないで、ただ他人をいい負かすことばかり考えている。こういうのが下等の勇気である。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071226#1198661707

『パイドロス』
P49

あの二つの話の愚かさかげんたるや、まことに念の入ったものだった。何ひとつたしかなことも、真実のことも言ってないくせに、ある種のつまらない連中をあざむいて、彼らの間で喝采を博しようものなら、まるでひとかどの存在であるかのように、もったいぶってみせるとはね。――だからぼくとしては、友よ、どうしても自分を浄める必要があるのだ。

カラスは白い?!

 能力者の3つのごまかしの手口、その1つ目は、「前提を変える」ことだ。

 ところで、この「前提を変える」という手口には1つ、面白い特徴がある。視点を高くすると、なぜかその考えのほうが高尚に見えることだ。

 論理の実の能力者の2つ目の手口――それは、「定義をいじる」ことである。

 最後に、能力者の3番目の手口。これは、「明らかに劣るラベルを用意して二者択一する」というやり方である。

内田樹小飼弾のやり口。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20080224#1203837494