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『天地有情』
P43

同書にまた「花を惜しむ人」と「花に別れる人」とを説いて、能く花を惜しむ人も得難いが、能く花に別れる人もまた得難い。能く花に別れてこそ花を惜しむのである。白楽天の詩にも、「世間・花に別るる人有る少し」といい、「花に別るる人ならずんば花を看せしむる莫かれ」といっているのを引いて、花を弄ぶ俗人を卑しんでおる。いかにも「能く花に別るる人」こそ有情である。美人に対するもまた同じ。美人を惜しんで、能く美人に別れる人こそもっとも能く美人を愛する者であろう。狎れることは俗である。こういう美的心境は東洋に深く発達しておるものである。
 花には実に好い詩が多いが、案外美人を詠じた詩に好いものは少ない。たいてい浅薄か卑俗になってしまう。唐の権徳輿の作、


巫山(ふざん)の雲雨 洛川(らくせん)の神
珠襷(はん)・香腰おだやかに身にかなふ
惆悵(ちゅうちょう)す粧成つて君見えず
情を含み起立して傍人に問ふ


など、好い方である。詩ばかりではない、実際美人というものは案外少ないのではなかろうか。美しいと思えば痴美であったり、妖美であったり、たまたまものをいえば興がさめるものが多い。肉体の美には、やはりそれだけの心の美がなければならぬ。むしろ心の美は顔貌の醜を化して秀とする。女にとって心を養い徳を磨くことは美人になる活きた芸術であろう――などといえば、女は女で、世に何と男なる者のつまらぬことよと嘆ずることであろう。そこで辛抱してやはり芸術や修養を愛することである。修養は禍を転じて福とする。芸術は醜を化して秀とする。
 南阿の開拓者として有名なセシルローズは女嫌いといわれ、独身を続けた人であるが、彼の婦人観を私はまだ知らない。しかし察するに女嫌いではなくて、好きな女がなかったのであろう。その証拠に、彼はレイノルズの傑作で、「美しく貞淑な婦人」と題する肖像画を食堂の煖爐の上に懸けて、毎日食事の際それを眺めて楽しんでいた。そして時には客人にその画中の女を我が最愛の婦人といって紹介したということである。
 西洋では独身の婦人をsingle blessing(独身の祝福〉というが、セシルローズと逆に、崇高な男性の肖像を掲げて純潔を守る婦人もあってよい。案外あるのかも知れぬ。それは男女の世の中を美しくするであろう。
 生きることは死にはぐれること outlive であるという警語がある。現代は正に死にはぐれにひとしい生活者の何と多いことであろう。せっかく生きるからには、もっと美しく生きたいものである。