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『東洋の心』
P118

今月の二十日は私の懐しい香山居士白居易の誕生日にあたる。指折り数へてみれば、彼が始めてこの世に生れあはせてから、はや千百二十年といふ時がたつた。彼は七十五でその骸をこそ土に帰したが、しかし幸福な彼はその後も絶えず多くの人の温い胸に生きてきた。なるほど我々の身体は現代に生存してゐる。ただ我々の魂の呼吸は決して現代にのみ限られてゐるものではない。静かに思へば、我らを古と絶ち、後より謝せしむるがごとくみゆる「時」も、つひに我らが思考の一形式に過ぎぬ。この身体こそは一時の現世に営々としてうごめいてゐるやうであるが、魂は常に無辺にみなぎって爽やかに呼び交しうるのである。これを思へば我が心は澄む。しかもなほ陰りやすく汚れやすい我らの心はおのづから限られたる不自由な境に彷徨して空しく悩まざるをえない。かくて人の心に「遥かなる愁ひ」が生れた。かつて陳子昂は幽州台に登って、彼の蒼々として涯しない大空を眺めたとき、我知らず涙は頬を伝うて、得もいヘぬ愴(いた)ましさを感じた。彼は歌ふ――


前に古人を見ず、
後に来者も見ず。
天地の悠々を念(おも)うて、
獨り愴然として涕下る。


 まことにゲーテも歎息したごとく、かの蒼空を眺めて何事をも感じぬ人は最も堕落した人であらう。この愴ましい心に大いなる力と浄い感激とを与へてくれる者は、かつて我らと思ひを同じうし、我らよりさらに切に、また大いなる苦修を重ねてくれた先人である。この意味において私は蘇東坡の恩を蒙むること、そもいかばかりであるであらう。
 ある一人の人を研究することは、同時にまた我らをその時、その時代に生かしめる。時と処とにおいて狭く限られてゐる我らの生活を内的に自由にかつ豊富にしてくれることだけでも、我らは限りない悦びを覚えざるをえない。