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【幕末から学ぶ現在(いま)】(25)東大教授・山内昌之 鍋島閑叟

閑叟は、殿様の趣味として欧米の学問を修めたのでなく、軍事力や産業力を強化する実利の手段として学んだのだ。反射炉や蒸気船を自前で造り出した技術は、薩摩の島津斉彬(なりあきら)とも甲乙つけがたい水準に達していた。江戸上野の彰義隊を壊滅させた根本要因は、本郷の現東大の場所に据え付けた佐賀藩のアームストロング砲の威力にほかならない。

 閑叟の端倪(たんげい)すべからざるゆえんは、安易に薩長と連合しなかった点にある。それどころか、幕末の激動をよそに幕府、京都の一橋・会津・桑名はもとより、尊皇攘夷派と公武合体派のいずれとも手を組まずに時勢の流れからも超然としていた。

 しかし、鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗走し、将軍慶喜にやる気がないのを見切って、勝負の勘所を見誤らなかったのはさすがである。この後、最新式軍備を誇る閑叟の部隊は、江戸開城から五稜郭包囲にいたるまで戊辰戦争を軍事的にリードする存在となった。

 長い目で見れば、薩長に脅威を与える逸材をつくった閑叟は、自分を高く売るだけの利己心や虚栄心で政局のタイミングを見計らう小人ではなかった。個人プレーでなく、堂々たる政策やビジョンに基づくチーム・プレーを指揮しながら、肥前佐賀を高く売りつけたのである。

 いずれにせよ、政治家として大をなすには、個人プレーの“オレがオレが”だけではダメな点は今も昔も変わらないのである。