われわれ日本人は、法にあるからといって天皇を戴(いただ)いているわけではない。わが国の長い歴史的経緯の中で、一貫して皇室を国の中心的存在として認めてきた。そのことを追認して法的表現にしただけのことなのである。すなわち皇室に対して国民が敬愛し、尊崇してきた事実があればこそ、それを法が追認しているのである。法があって皇室が存在するのではない。
だから、法(つまり内閣)が陛下に指図するのは本末転倒なのである。そのことを鳩山由紀夫内閣・与党は分かっていない。
法も論語も字面だけ読んで自分の属する特定勢力のために利用してるだけだからこんなことになる。
『洗心洞箚記』
P51
余一諸生の鏡に臨み髪を理するを見る。因つて之に謂ひて曰く、明鏡に臨みて苦(ねんごろ)に鬢髪の鬆(しょう)と不鬆を照さんよりは、良知を明かにして切に意念の誠不誠を察せんに如かず。鬢髪は鬆と雖も、君子たるを害せず。意念誠ならざれば、則ち禽獣たるを害せざるなり
P63
心に意必固我あれば則ち虚にあらずして、四書五経を見れば、則ち一も行ふべからざるものなり。心に意必固我なければ則ち虚に帰す、虚に帰して見れば、則ち一も行ふべきものなり。是の故に心は虚を貴ぶなり。
P64
陽明先生の良知を致すは、知つて行はざる者の為めに之を発するなり。是れ朱門末学の弊を救へるのみ。而て行はずして徒に良知を語る、則ち但其の学者之を責むるのみにあらず。塗の人(道路を通る人)と雖も、詆笑す宜し。
P75
良知を致さずんば、則ち仁決して熟せざるなり。
心太虚に帰せずして、而て良知を謂ふ者は、皆情識の知にして、而て真の良知にあらざるなり。真の良知は他にあらず、太虚の霊のみ。道を知る者にあらずんば、孰かよく之を悟らん。
P86
孟子に「其の心を盡す者は、其の性を知るなり、性を知れば則ち天を知る」と。天を知る者は、正にこれ心の虚即ち太虚たるを感得す。乃ち天と斉(ひと)し。学者此に至らば、亦聖人なるかな。