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良寛さんに学ぶ働きがいを持てる人、持てない人

「勝った・負けた」「得した・損した」といって一喜一憂するのも心、そのあらわれ方は百人百様です。同じような環境にあっても満ち足りた気分になる人もいれば、おおいに不満を覚える人もいます。お城のような邸宅で暮らし、毎日ご馳走三昧でも幸福感がやってこない人もいれば、極貧生活の中にも楽しみを見出し、麦飯と味噌汁だけの質素な食事をしみじみ味わえる人もいます。そう考えると、豊かな不満社会に生きる現代の日本人は、環境にかかわらず概して不満傾向にあるといえるのではないでしょうか。

経済的に苦しくとも、たとえ粥をすすりながらでも、武士が誇り高く生きられた背景には、やはり精神的な修業の積み重ねがあったのでしょう。彼らは心の核となる「教養、度量、器量」という財産を内面に備えていました。その財産を活かして草木をしみじみ味わったり、これを題材に気の利いた俳句や和歌を詠むこともできました。それが武士としての生きがいに通じていたのです。


また、当時はお金を儲ける人が敬われていたわけではなく、お金のある、なしで勝ち組・負け組の線引きをするという発想もありませんでした。物質的な富はなくても高い教養を身につけた武士は、尊敬の的となっていたのです。心の核である教養、度量、器量がないとついお金やモノに心が引きずられて貧しくなってしまいます。貧しいことを「不幸」や「負け」とすぐ結びつけてしまう心の習慣によって、苦しみが生まれます。

お金やモノに流されずいつも清々しく豊かな心を持ち続けるということは、できそうでなかなかできないことです。なぜなら、わたしたち人間は「二元論的思考」をする生き物だからです。二元論とはモノと心、善と悪、金持ちと貧乏、好きと嫌い、失敗と成功、エリートと落ちこぼれ、勝ち組と負け組というように対立する概念で物事を捉えることで、白と黒の間のグレーゾーンはありません。


この二元論的思考が根底にあると、私たちは凝り固まった小さなモノサシや自分の価値観に振り回されることになります。「富と貧」「勝ちと負け」を区別して比べる心です。両者を対極において見るために「勝ち」になれない自分が苦しくなってしまうのです。

元来、禅の世界では二元対立を嫌い、排していきます。そして絶対の主体性を目指します。ここで強調しておきたいのは、皆さんがとらわれている考え方、判断の仕方などは、実はすべてあなたの周りが勝手に創り上げた既成概念、いわば「雲」のようなものにすぎないということです。この既成概念による小さなモノサシを破壊しないかぎり、心の改革はなされません。


「モノ」や「お金」の量にかかわらず「なんだか満たされない」のは、物質社会がつくり上げた既成概念に縛られすぎているために、本来得ている働きがいや生きがいに気づけなくなっているからです。他人の常識、社会の常識を軸に物事を考えたり行動するために、内面が空虚になってしまうのです。


もちろん、人間が生活していくうえでモノもお金も欠かせません。なくては困るものです。科学と技術の発達に伴って便利なモノが大量生産されることは生活レベルを高め、人類全体の福祉の増進にも寄与することができます。モノやお金が幸せな気分を運んできてくれることも確かです。ただし、モノやお金は膨らみすぎると羨望や奪い合いの対象にもなり、欲望を際限なく膨らませていけば利己的な心が生まれます。少しでも多くのモノを自分で得ようとして対立や葛藤が生まれます。


こうなると、心の成長に歯止めがかけられ“マイナス成長”を始めることもあります。心がビンボーになったこの状態では、結局「○○があるから幸せ」というモノに操られた偽りの幸せしか得られなくなってしまいます。本当は幸福の決定権はモノにあるのではなく、やりがいや生きがいをつくり出そうとする自己の心にのみあります。そしてわたしたちの心が真に満たされるとき、モノと心は対立した関係ではなく一つになっているはずなのです。

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