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【一服どうぞ】裏千家前家元・千玄室 心掛け次第で人間性に差

 万葉集の巻二十に「今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つわれは」の歌がある。その反面「韓衣(からころむ)裾に取りつき泣く子らを置きてそ来(き)ぬや母(おも)なしにして」。衣のすそにすがって泣く子供たちを置き去りにしてきてしまった。母親もいないままで、という出征の悲愴(ひそう)な歌もある。この歌は人間としてもっともなことで、防人(さきもり)として出ていかなければならぬ別離は今も昔も変わらない。

 人は肉体と霊魂から成るという観念が、古代人には特に強く、肉体が滅びても霊魂は存在すると考えられ、霊のことを「タマ」と呼んでいた。病気や死などの不幸は霊魂が弱ったり、どこかに離れていくと思われ、その霊をしっかりとらまえれば再起できるといわれた。霊魂は正しく人間の活力でもあるから、こうした霊に対して歌を詠(よ)んで、魂を鎮めたり悲哀を消そうとした古代の人は純粋であった。奈良朝から平安朝に移ると、人間が生きるためのさまざまな欲望や人間葛藤(かっとう)などが表に現れてくる。源氏物語などを読むとそうしたものがつづられている。とかく人間は、自分が良い子であることを認めてもらいたい願望がある。

 井伊直弼(1815〜60)が『茶湯一会集』の「独座観念(どくざかんねん)」で「主客とも、余情残心を催し、亭主は客が帰られたあと独り茶室に坐して、今日の茶が二度と繰り返すことのできぬ貴重な一期一会であったことを観念しながら、一●(いちわん)の茶を静かに喫す」とある。こうした独坐、また独り茶を喫することが奇特のことに結びつくかはその本人の心掛け次第である。忙しさにかこつけて漫然と一日を終えてしまうのと、一寸(ちょっと)した時間をつくって、独り静かに瞑想(めいそう)にふけって己を省みるのとでは、人間性の在り方に大いなる差が出てくる。

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