https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

『東洋の心』
P242

 さうして今更のやうに思ったことであるが、現代に最も欠けている大切なものは、民の師たり父母たる人の道である。世人は余りに職業人化して、各々専門の知識技術に走り、功利に汲々として、己を空しうして人を思ひやるやうな優情に乏しい。社会政策は結構であるが、人間同志のことを事務化した。我と人との関係は機械的組織機構になり、人々は全体を支配する法令にしたがって動いていく。人間は今や巨大な機械と化した。世の中は広大な工場のやうになっていく。この近代西洋国家的現象をいかに東洋家族的情義のあるものにしてゆくかといふことが、たとへ如何に難くとも心すべきことである。

 彼は私といふもののない人であった。いろいろの意味で自ら偉くならうといふやうなことも考えなかった。学を好んで已むにやまれぬ心から終身倦むことを知らず勉強した。弟子を愛して己を立てず、才器にしたがって育成した。彼はいつも語った。古人のやうに己を修め、人を治めることなどは、自分ごときの到底望みえられるところではない。自分はただ已むにやまれぬ心から学ぶだけのことである。また、聖人の道は学問の深浅にあるのではない。徳を成し、才を育て、その器用を尽すばかりであると。

 重病の床にあっても、弟子に扶けさせ、机によって講釈した。いよいよいけなくなることが分ると、稿本をいくつも弟子に命じて焼却させた。弟子たちが惜むと、こんな未定の書を残すと、後人を誤るかもしれんといって聞入なかった。そして僅かに文集十三巻を平洲に託して逝った。