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【転機 話しましょう】女優の浜木綿子さん 常に前向きに生きれば道は開ける

 女優の浜木綿子さん(77)は今年、芸能生活60周年を迎えました。宝塚のトップスター時代から今日まで、大劇場の舞台に立ち続けながら、一人息子を育て上げました。その道のりは“ガタゴト列車”に乗ったようで、平坦(へいたん)ではありませんでした。

 宝塚在団中から劇作家、菊田一夫(1908〜73年)に芝居のうまさを見いだされ、東宝の舞台「がめつい奴」「がしんたれ」に異例の外部出演まで果たした浜さん。菊田の熱心な勧めもあって、昭和36年に宝塚を退団し、東宝に移籍。同年、後に夫となる歌舞伎役者の市川団(だん)子(こ)(後の猿之助(えんのすけ)、現猿翁(えんおう))さん(73)と共演して40年に結婚、30歳で照之さんを出産する。


 公私とも「若い頃は特急列車でした」と笑うが42年、最初の試練に見舞われる。舞台「風と共に去りぬ」出演中、結婚2年目の夫が突如、一人で家を出ていってしまったのだ。


 舞台ではレット・バトラーを待ち続ける娼婦ベル・ワトリング役。レットとの別れの場面では後ろを向いた途端、私生活が重なって涙が止まらなかった。


 「役と現実が重なるのは本当はよくないのですが、それが絶賛されました。悲しくて悲しくて『背中で泣く女優』って。非常に苦しい公演でしたが、お客さまが感動して、支えてくださいました」


 周囲の雑音かまびすしい中、「子供のため、1年間は夫を待つ」と公言。しかし復縁果たせず、43年に正式離婚する。

 60年の芸能生活の中で、たった一度だけ、女優を辞めようと思ったことがある。44年、ミュージカル「ラ・マンチャの男」の日本初演で、はたご屋の女アルドンサ役にトリプルキャストで出演中、降板してしまったのである。


 「外国人演出家の稽古が苦しくて、精神も肉体もボロボロになりました。何とか開幕までこぎ着けたものの、その疲れが公演終盤に出て、突然声が出なくなってしまったんです」


 米ブロードウェーの名作に、心して臨んだ舞台だっただけにすっかり自信を失い、自宅に籠もって引退を考えた。そこに光を照らしたのが友人や恩師だった。


 「歌がなくても、お芝居は残っている。歌ばかりがあなたの道じゃない」


 宝塚の同期、那智わたるさんが自宅を訪ね、励ましてくれた。浜さんをスカウトした菊田ら東宝幹部も、「別の舞台に出るのがリハビリ」と間髪入れず次回出演作の台本を持ってきた。芝居がある。芝居がやりたくて自分は宝塚を退団したのだと思い直した。


 「とにかく前に進もう。ここにとどまってはいけないと一生懸命やりました」


 不本意な仕事にも全力で取り組んだ結果、48年には舞台「湯葉」で初主演を果たす。浜さんの紆余(うよ)曲折すべてを知る菊田が、遺言で指示してくれた、あの世からのプレゼントだった。「胸が熱くなりました。公私とも苦しい時期があったけれど、私は周囲とお客さまに本当に恵まれた」


 初主演公演を成功させてからは、400回以上演じた代表作「売らいでか!」まで、さまざまな作品で座長公演をつとめ続ける。

 「ヒマワリみたい」と言われ続けてきた。「若い頃はあまり好きではなかったんです。でも今は大好き」


 風雨に負けず、常に太陽に顔を向ける姿がいとおしい。当たり役も、「売らいでか!」のなつ枝役など苦労を笑い飛ばし、涙をぬぐって前向きに生きる女性が多い。


 「芝居には、その人間の本質が出ます。60年の間には色々なことがあり、お月様のような見えない裏側もある。でも結果としてすべて表現に繋がりました」


 円熟の時を迎えた大輪の花は、今なお周囲を照らし続けている。

 〈はま・ゆうこ〉昭和10年、東京都生まれ。大阪・梅花学園高校から28年、宝塚歌劇団に入団し、「春の踊り」で初舞台。雪組娘役トップスターとして春日野八千代らの相手役をつとめ、36年に退団。以後、「売らいでか!」「芝櫻」ほか数多くの座長公演で活躍。テレビでも「おふくろ」シリーズなどに主演。平成12年に紫綬褒章受章。

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