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河井継之助 - Wikipedia

小千谷談判の決裂


5月2日(6月21日)、河井は小千谷の新政府軍本陣に乗り込み、付近の慈眼寺において新政府軍監だった土佐の岩村精一郎と会談した。岩村精一郎によると、河井は奥羽への侵攻停止を訴えたが、岩村に河井の意図が理解できるわけもなく、また岩村が河井を諸藩によくいる我が身がかわいい戦嫌いなだけの門閥家老だと勘違いしたこともあり、降伏して会津藩討伐の先鋒にならなければ認めないという新政府の要求をただ突きつけるだけであった。交渉はわずか30分で決裂。
これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、2日後に北越戦争へと突入する。

岩村高俊 - Wikipedia

この岩村の熟慮を欠いた判断が、長岡藩を奥羽列藩同盟側へ追い込むこととなった。その結果、北越戦争における新政府軍のみじめな戦果、長岡藩ほどの小藩の抵抗による想定外の大損害、一度陥落させた城を奪われるという軍事史的にまれな大失態を起こす。

佐賀県権令としても、ドナルド・キーンの「無能で横柄な岩村の抜擢は、最悪の選択だったと言える」との厳しい評がある。キーンの『明治天皇』によれば、岩村佐賀藩島義勇の前で佐賀藩士を侮辱し、彼を反乱側へと追いやったとしている。

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越後長岡藩の家臣団 山本(帯刀)家- Wikipedia

幕末に、越後長岡藩門閥勢力が河井継之助に敵対的であったのに対して、同藩次席家老の山本帯刀義路(やまもとたてわきよしみち)は、彼の父・山本帯刀義和とは異なり協力的であった。北越戦争において会津飯寺で捕虜となったが、詫びれば助命するとの沙汰を拒否して、斬首となった。
山本五十六帝国海軍連合艦隊司令長官は、断絶していた山本氏を同藩士・高野家から養嗣子として継いだ人である。

山本五十六 - Wikipedia

1915年(大正4年)、牧野忠篤子爵の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続する。高野五十六から山本五十六となった。