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『神曲』訳業の旅路---『神曲』訳者:原 基晶  | 読書人の雑誌『本』より | 現代ビジネス [講談社]

というのも、誰の人生にもその人を象徴する出来事があると、ぼくは思うからだ。例えば「地獄篇」第二十六歌、大海原に身を投げ出してしまったときのオデュッセウスの決断のように。あるいは「地獄篇」第五歌のフランチェスカの、恋のきっかけとなった本のように。そしてぼくの場合、それは、父が朝に救急車で搬送された先の病院から、昼に至急戻るよう連絡があり、大急ぎで移動しているさなかのことだった。そのとき、「地獄篇」の最後の校正刷りを戻すためにぼくは郵便局に立ち寄った。それゆえ、ここにそのときの自分を刻みつけておく。


あの日々に、ぼくはできたばかりの校正刷りを前にして、どうしても気になって、通常は重要視されることのないダンテの父アリギエロの(そして母ベッラの)、肉声の欠片を探して、耳を澄ましながら自分の訳した本文を声に出して読んでいた。

ぼくにダンテの両親の肉声は聞こえてこなかった。けれども今、少なくとも彼は、父と母の愛ゆえに生まれてきたことを大切に思っていたと確信している。最後に『神曲』の本文を読み返していて、前からあったはずのそれらの言葉が、ぼくに突然、聞こえてきたからだ、愛情のこもった「父」「母」「息子」という呼びかけが。