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パリ科学アカデミーのなかの錬金術 Principe, "End of Alchemy?" - オシテオサレテ

 近年の科学史研究で、卑金属の貴金属への変成(transmutation)を目指す錬金術の営みが、単なる迷信として片づけられることはない。金属変成の術(chrysopoeia)を見過ごしては、自然探求の伝統を理解できないことは広く認められるにいたっている。だがそうなると問題となるのは、金属変成の術がどこの時点で、いかにして正当な自然探求の営みとみなされなくなったのかということである。答えの一つは、1722年にフランス科学アカデミーの会員であるエティエンヌ=フランソワ・ジョフロワが「賢者の石に関する偽りについて」という論考を読みあげた時点に求められる。だが本当にこれが分水嶺なのか。

Hellotは過去のアカデミー会員が残した文書(当時はまだ残存していた)から抜き書きをするのみならず、同時代人と口頭で話した内容もまたメモとして残している。これらのノートが1960年代以降見つかった(論考の著者自身も2010年に新たに3冊のノートを発見している)。

 化学アカデミーは変成の営みにたしかに好意的ではなかった。コルベールらは政治的配慮から、フォントネルはアカデミーの名声のために金属変成を追放しようとした。薬剤研究からアカデミーに参画した会員らは、化学者を攻撃するために変成を批判した。これは変成の探求が広く疑わしい目でみられていたという背景を勘案するなら不思議なことではない。だがこのような反発のなかにありながら、アカデミーの化学者たちは1666年の設立から、すくなくとも1770年にいたるまで変成の探求を続けた。ジョフロワの1722(24)年の論考は、探求の終焉を告げるのではない。それは賢者の石が表舞台から姿を消し、地下に潜る地点を指ししめしているのである。Hellotのノートは、この潜行した営みに光を当てるのである。