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【コラム】「創造性のない模倣だけ」日本人論に異議−スミス - Bloomberg

日本人は創造性に欠け、欧米を模倣して取り入れたものを小幅に改良するだけと久しく言われてきたが、米ピュー・リサーチ・センターの最近の調査によれば、米国人の実に75%が日本人を「独創的」だと考えている。それでも旧来の日本人論が時折聞かれ、これは修正する必要があるというものだろう。


まず、「日本人は一体何を発明したか」との問いには長くて印象に残るリストを示すことができる。エレクトロニクスの分野だけでも、デジタル一眼レフカメラフロッピーディスクフラッシュメモリー、VCR、電卓、ウォークマン、ラップトップ、DVDなどなど。


旧来の日本人論を唱える者は、上記の多くが他国での発明技術を活用しただけだと指摘するだろう。例えばデジタル写真を可能にするCCDは米国生まれ。しかし、新たな着想から生まれるイノベーションの歴史を振り返れば、そのほぼ全てが先人の積み重ねに基づいていることが分かる。例えば、ジェームズ・ワットは蒸気機関を発明した人物として知られるが、蒸気機関の商品化への功績があったというのが本当のところだ。蒸気機関を手掛けた人物はほかにもいたが、買い手が付くほどの費用対効果を出せなかった。ビジネスに関する学問が発明とイノベーションを区別するのはそういうわけだ。発明は技術の創造で、イノベーションはその技術に基づき役に立つ製品をつくり出すことだ。日本は後者で優れている。


もちろん、発明においても日本は実は優れている。2014年のノーベル物理学賞受賞者は青色発光ダイオード(LED)を発明した日本人チームだった。人工多能性幹細胞(iPS細胞)を開発した山中伸弥教授も日本人で12年にノーベル賞を受賞。飯島澄男氏もカーボンナノチューブの発見者として知られている。


自然科学分野の日本人のノーベル賞受賞者(受賞時点での外国籍取得者を含む)は19人と、ロシアを上回っている。 


それに、エレクトロニクスや物理学などの分野に限られた話ではない。うま味成分のグルタミン酸ナトリウムも日本で1908年に発見された。ビタミンB1も甘味料の異性化糖もそうだ。娯楽や文化面でもビデオゲームの多くが日本で誕生したし、カラオケや漫画は米国人の心をつかんでいる。さらに東京のレストランを訪れれば、米国ではあまりお目にかかれない斬新さや創造性の高さが分かる。


要は日本は創造性と独創性に富む大国なのだ。恐らく米国のみが、その人口の大きさや多様性、豊富な研究資金、そして発明家を海外から受け入れることで日本をしのぐのだろう。


ただし、日本が発明とイノベーションで能力をさらに高めることができる重要な方法が少なくとも2つある。第一が大学の改善だ。世界の大学ランキングを見れば、上位を米国の大学が占め、東京大学はやっと23位。日本語が世界的に使われる言語ではないため世界でトップクラスの学者を集められないということもあるだろうが、長年の緊縮財政で研究資金が乏しいというのも要因だろう。幸いにも安倍政権はどちらの問題も解決しようと取り組んでいる。


日本がやろうと思えばできる2つ目の課題は、米国防総省の国防高等研究計画局(DARPA)に匹敵する機関を設けることだ。多くの日本人は尻込みするだろうが、インターネットなど社会を一変させるような発明やイノベーションの数々にDARPAは貢献してきた。日本はもはや軍事大国を自認していないので、DARPAのような組織づくりに資金を投じる理由はあまりないかもしれないが、変わる兆しも見える。


つまり、実は非常に創造的でイノベーションに富んできた日本はその能力を維持するために必要なことを実践している。米国も同様に行動すべきだろう。

Japan Isn't Just a Knockoff Nation - Bloomberg View
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150423#1429785515
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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150422#1429699201
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150403#1428057554
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150328#1427538857
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150315#1426416493
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150311#1426070746
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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150108#1420713483
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150101#1420118106
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141222#1419244751
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140531#1401532995
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20131114#1384425491
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iTunes - ブック - 内村鑑三「デンマルク国の話」

図書カード:デンマルク国の話

ユグノー党の信仰はその一人をもって鋤と樅樹とをもってデンマーク国を救いました。よしまたダルガス一人に信仰がありましてもデンマーク人全体に信仰がありませんでしたならば、彼の事業も無効に終ったのであります。この人あり、この民あり、フランスより輸入されたる自由信仰あり、デンマーク自生の自由信仰ありて、この偉業が成ったのであります。宗教、信仰、経済に関係なしと唱うる者は誰でありますか。宗教は詩人と愚人とに佳くして実際家と智者に要なしなどと唱うる人は、歴史も哲学も経済も何にも知らない人であります。国にもしかかる「愚かなる智者」のみありて、ダルガスのごとき「智き愚人」がおりませんならば、不幸一歩を誤りて戦敗の非運に遭いまするならば、その国はそのときたちまちにして亡びてしまうのであります。国家の大危険にして信仰を嘲り、これを無用視するがごときことはありません。私が今日ここにお話しいたしましたデンマークとダルガスとにかんする事柄は大いに軽佻浮薄の経世家を警むべきであります。

iTunes - ブック - 内村鑑三「後世への最大遺物」

図書カード:後世への最大遺物

私は実業教育を受けたものであったから、もちろん金を遺したかった、億万の富を日本に遺して、日本を救ってやりたいという考えをもっておりました。

私は金のためにはアメリカ人はたいへん弱い、アメリカ人は金のためにはだいぶ侵害されたる民であるということも知っております、けれどもアメリカ人のなかに金持ちがありまして、彼らが清き目的をもって金を溜めそれを清きことのために用うるということは、アメリカの今日の盛大をいたした大原因であるということだけは私もわかって帰ってきました。

 今日の英国はエライ国である、今日のアメリカの共和国はエライ国であると申しますが、それは何から始まったかとたびたび考えてみる。それで私は尊敬する人について少しく偏するかも知れませぬが、もし偏しておったならばそのようにご裁判を願います、けれども私の考えまするには、今日のイギリスの大なるわけは、イギリスにピューリタンという党派が起ったからであると思います。アメリカに今日のような共和国の起ったわけは何であるか、イギリスにピューリタンという党派が起ったゆえである。

 イギリスに今からして二百年前に痩ッこけて丈の低いしじゅう病身な一人の学者がおった。それでこの人は世の中の人に知られないで、何も用のない者と思われて、しじゅう貧乏して裏店のようなところに住まって、かの人は何をするかと人にいわれるくらい世の中に知れない人で、何もできないような人であったが、しかし彼は一つの大思想を持っていた人でありました。

その時に当ってどのような権力のある人であろうとも、彼の信ずるところの、個人は国家より大切であるという考えを世の中にいくら発表しても、実行のできないことはわかりきっておった。そこでこの学者は私かに裏店に引っ込んで本を書いた。この人は、ご存じでありましょう、ジョン・ロックであります。その本は、“Human Understanding”であります。

有名なるウォルフ将軍がケベックの市を取るときにグレイの Elegy を歌いながらいった言葉があります、すなわち「このケベックを取るよりもわれはむしろこの Elegy を書かん」と。

すべての学問を四十八年間も積んだ人がただ三百行くらいの詩を遺して死んだというては小さいようでございますが、実にグレイは大事業をなした人であると思います。

文学というものはわれわれの心のありのままをいうものです。ジョン・バンヤンという人はチットモ学問のない人でありました。もしあの人が読んだ本があるならば、タッタ二つでありました、すなわち『バイブル』とフォックスの書いた『ブック・オブ・マータース』(“Book of Martyrs”)というこの二つでした。

「私はプラトンの本もまたアリストテレスの本も読んだことはない、ただイエス・キリストの恩恵にあずかった憐れなる罪人であるから、ただわが思うそのままを書くのである」といって、“Pilgrim's Progress”(『天路歴程』)という有名なる本を書いた。それでたぶんイギリス文学の批評家中で第一番という人……このあいだ死んだフランス人、テーヌという人であります……その人がバンヤンのこの著を評して何といったかというと「たぶん純粋という点から英語を論じたときにはジョン・バンヤンの“Pilgrim's Progress”に及ぶ文章はあるまい。これはまったく外からの雑りのない、もっとも純粋なる英語であるだろう」と申しました。

われわれが他人から聞いたつまらない説を伝えるのでなく、自分の拵った神学説を伝えるでなくして、私はこう感じた、私はこう苦しんだ、私はこう喜んだ、ということを書くならば、世間の人はドレだけ喜んでこれを読むか知れませぬ。今の人が読むのみならず後世の人も実に喜んで読みます。

彼のような心を持ったならば実に文学者になれぬ人はないと思います。

なにゆえにつまらないかというに、アノ雑誌のなかに名論卓説がないからつまらないというのではありません。アノ雑誌のつまらないわけは、青年が青年らしくないことを書くからです。青年が学者の真似をして、つまらない議論をアッチからも引き抜き、コッチからも引き抜いて、それを鋏刀と糊とでくッつけたような論文を出すから読まないのです。もし青年が青年の心のままを書いてくれたならば、私はこれを大切にして年の終りになったら立派に表装して、私の Library(書函)のなかのもっとも価値あるものとして遺しておきましょうと申しました。

それです、私は名論卓説を聴きたいのではない。私の欲するところと社会の欲するところは、女よりは女のいうようなことを聴きたい、男よりは男のいうようなことを聴きたい、青年よりは青年の思っているとおりのことを聴きたい、老人よりは老人の思っているとおりのことを聴きたい。それが文学です。それゆえにただわれわれの心のままを表白してごらんなさい。ソウしてゆけばいくら文法は間違っておっても、世の中の人が読んでくれる。それがわれわれの遺物です。

われわれの文学者になれないのは筆が執れないからなれないのではない、われわれに漢文が書けないから文学者になれないのでもない。われわれの心に鬱勃たる思想が籠もっておって、われわれが心のままをジョン・バンヤンがやったように綴ることができるならば、それが第一等の立派な文学であります。カーライルのいったとおり「何でもよいから深いところへ入れ、深いところにはことごとく音楽がある」。実にあなたがたの心情をありのままに書いてごらんなさい、それが流暢なる立派な文学であります。私自身の経験によっても私は文天祥がドウ書いたか、白楽天がドウ書いたかと思っていろいろ調べてしかる後に書いた文よりも、自分が心のありのままに、仮名の間違いがあろうが、文法に合うまいが、かまわないで書いた文の方が私が見ても一番良い文章であって、外の人が評してもまた一番良い文章であるといいます。文学者の秘訣はそこにあります。

私がたいへん世話になりましたアーマスト大学の教頭シーリー先生がいった言葉に「この学校で払うだけの給金を払えば学者を得ることはいくらでも得られる。地質学を研究する人、動物学を研究する人はいくらもある。地質学者、動物学者はたくさんいる。しかしながら地質学、動物学を教えることのできる人は実に少い。文学者はたくさんいる、文学を教えることのできる人は少い。それゆえにこの学校に三、四十人の教授がいるけれども、その三、四十人の教師は非常に貴い、なぜなればこれらの人は学問を自分で知っているばかりでなく、それを教えることのできる人であります」と。

 それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。

もし今までのエライ人の事業をわれわれが考えてみますときに、あるいはエライ文学者の事業を考えてみますときに、その人の書いた本、その人の遺した事業はエライものでございますが、しかしその人の生涯に較べたときには実に小さい遺物だろうと思います。

トーマス・カーライルよ、汝は愚人である、汝の書いた『革命史』はソンナに貴いものではない、第一に貴いのは汝がこの艱難に忍んでそうしてふたたび筆を執ってそれを書き直すことである、それが汝の本当にエライところである、実にそのことについて失望するような人間が書いた『革命史』を社会に出しても役に立たぬ、それゆえにモウ一度書き直せ」といって自分で自分を鼓舞して、ふたたび筆を執って書いた。その話はそれだけの話です。しかしわれわれはそのときのカーライルの心中にはいったときには実に推察の情溢るるばかりであります。カーライルのエライことは『革命史』という本のためにではなくして、火にて焼かれたものをふたたび書き直したということである。

 今時の弊害は何であるかといいますれば、なるほど金がない、われわれの国に事業が少い、良い本がない、それは確かです。しかしながら日本人お互いに今要するものは何であるか。本が足りないのでしょうか、金がないのでしょうか、あるいは事業が不足なのでありましょうか。それらのことの不足はもとよりないことはない。けれども、私が考えてみると、今日第一の欠乏は Life 生命の欠乏であります。

二宮金次郎氏は十四のときに父を失い、十六のときに母を失い、家が貧乏にして何物もなく、ためにごく残酷な伯父に預けられた人であります。それで一文の銭もなし家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持っていた。身に一文もなくして孤児です。その人がドウして生涯を立てたか。伯父さんの家にあってその手伝いをしている間に本が読みたくなった。そうしたときに本を読んでおったら、伯父さんに叱られた。この高い油を使って本を読むなどということはまことに馬鹿馬鹿しいことだといって読ませぬ。そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という決心をした。それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種を蒔いた。一ヵ年かかって菜種を五、六升も取った。それからその菜種を持っていって、油屋へ行って油と取換えてきまして、それからその油で本を見た。そうしたところがまた叱られた。「油ばかりお前のものであれば本を読んでもよいと思っては違う、お前の時間も私のものだ。本を読むなどという馬鹿なことをするならよいからその時間に縄を綯れ」といわれた。それからまた仕方がない、伯父さんのいうことであるから終日働いてあとで本を読んだ、……そういう苦学をした人であります。どうして自分の生涯を立てたかというに、村の人の遊ぶとき、ことにお祭り日などには、近所の畑のなかに洪水で沼になったところがあった、その沼地を伯父さんの時間でない、自分の時間に、その沼地よりことごとく水を引いてそこでもって小さい鍬で田地を拵えて、そこへ持っていって稲を植えた。こうして初めて一俵の米を取った。その人の自伝によりますれば、「米を一俵取ったときの私の喜びは何ともいえなかった。これ天が初めて私に直接に授けたものにしてその一俵は私にとっては百万の価値があった」というてある。それからその方法をだんだん続けまして二十歳のときに伯父さんの家を辞した。そのときには三、四俵の米を持っておった。それから仕上げた人であります。それでこの人の生涯を初めから終りまで見ますと、「この宇宙というものは実に神様……神様とはいいませぬ……天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに委ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」というこういう考えであります。その考えを持ったばかりでなく、その考えを実行した。

もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起る考えであります。しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。われわれに友達がない、われわれに金がない、われわれに学問がないというのが面白い。われわれが神の恩恵を享け、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業を遺すものである。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。

己の信ずることを実行するものが真面目なる信者です。ただただ壮言大語することは誰にもできます。いくら神学を研究しても、いくら哲学書を読みても、われわれの信じた主義を真面目に実行するところの精神がありませぬあいだは、神はわれわれにとって異邦人であります。それゆえにわれわれは神がわれわれに知らしたことをそのまま実行いたさなければなりません。こういたさねばならぬと思うたことはわれわれはことごとく実行しなければならない。もしわれわれが正義はついに勝つものにして不義はついに負けるものであるということを世間に発表するものであるならば、そのとおりにわれわれは実行しなければならない。これを称して真面目なる信徒と申すのです。われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。


Shinichi Ueyama

二重行政の起源は政令市の生い立ちにさかのぼる。5大市の横浜、名古屋、京都、大阪、神戸は戦後の地方制度改革で府県に属さず、府県と同等の権限や財源を持つ「特別市」になる予定だった。しかし府県が反対し、政令市と位置づけられた。権限の似た自治体が併存する決着は二重行政の温床になった。

Shinichi Ueyama

都構想は政令市の廃止によって重複をなくす。中京都構想も似通う。逆にかつての特別市のように政令市を府県から独立させるのが、横浜市などの特別自治市構想だ。東京でも道州制をにらみ、都心3区(千代田、中央、港区)を国の直轄区域にすべきだとの意見もある。

参院は都道府県単位の選挙区維持を NHKニュース

参議院自民党は、参議院選挙制度改革を巡って来週から党内議論を本格化させる方針で、執行部は、1票の格差是正に向けて2つの県を1つの選挙区にする合区を2か所程度で行うなどとする案を軸に検討しています。
こうしたなか、自民党の森屋宏参議院議員ら当選1回の有志議員が安倍総理大臣と面会し、執行部が検討している合区を行う案に反対する立場を伝えました。そして、都道府県単位で地域の意見を集約することは地方の声を国政に反映させるうえで重要だとして、今後の憲法改正論議都道府県単位の選挙区を維持することを検討すべきだと申し入れました。
森屋氏らは記者団に対し「安倍総理大臣には、都道府県単位の選挙区の維持は、地方創生の観点からも好意的に受け止めてもらえたと思う」と述べました。

だいたいアンチ橋下になっている有識者は、先に僕に対して人格攻撃をしてきて、こっちがちょっと反撃すると、あとはゴニョゴニョ言い出す - 5月7日(木)のツイート

大阪都構想は広域行政体と基礎自治体という役所の役割分担を明確化しようというものだ。道州制はそれに国も加わる。僕は役割分担にこだわる。これは権限と責任の明確化にもつながる。ゆえに政治と行政の役割分担にもこだわる。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150506#1430908756
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150506#1430908757

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150425#1429959421

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141217#1418812890
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141203#1417603156

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20081117#1226880029


東京大学出版会

【書評】西本晃二『ルネッサンス史』が5/3「毎日新聞」で紹介されました.評者は本村凌二氏(早稲田大学特任教授・西洋史). http://www.utp.or.jp/shohyou/2015/05/03/mainichi_21080/ … 「〔ルネッサンス史の〕背景に,経済,政治,社会,技術,人口などの生態がひそむことにあらためて驚かされるだろう.」