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頭山満伝―ただ一人で千万人に抗した男

頭山満伝―ただ一人で千万人に抗した男

人ありて―頭山満と玄洋社

人ありて―頭山満と玄洋社

特別インタビュー(3)無私の精神で道義的な国づくりを目指した頭山満という圧倒的な存在感 | 夢・大アジア

私の場合は高校時代の国語の先生から「頭山満のようになれ」と言われていました

 このような話が持ち上がったのは平成十二年(二〇〇〇年)頃のことで、ちょうど時代の大きな節目でした。私には「未来を夢見て」というより、「まず、足下の五十年前、百年前を見るべき。答えは歴史の中にあるはず」という想いがありました。しかも、郷土の福岡で新聞記者をやっているのですから、頭山満というテーマは天命のようなものだったと感じています。 玄洋社の母体の向陽社は向陽義塾という私塾を持っていて、外国のことや歴史を勉強していました。向陽義塾はその後、藤雲館となり、それが元になり中学修猷館ができましたので、私の母校・福岡県立修猷館高等学校のルーツはまさに玄洋社にあるといえます。

 頭山はまた、自然と対話をする自然児でもありました。よく山にこもって、一人でじっくり考えていたりしています。それは少年時代からの習慣だったようです。自然の摂理というものを知っているからこそ、現実的な判断ができる。無闇矢鱈に猪突猛進するのではなく、タイミングを計ることの大切さを知っているのです。 私は、頭山満という人は、生まれたばかりの赤ちゃんのように純粋無垢で、無色透明な人間だと思っています。だから、見る人によって違って見える。赤にも白にも黒にも見える。見る人の想いがそのまま投影されてしまうからです。人物像がつかみにくいのは、西郷隆盛と同じです。二人の共通点は、自己主張というものがまったくないことです。全身が他者への思いやりで満たされている。接する人々はそこに吸い込まれていったのではないでしょうか。怒りはすべて公憤、行動はすべて、国のため。自分自身は、空で、無私の精神です。そして、ただひたすら、覇道ではなく王道、西洋近代とは異なる原理に基づく、道義的な国づくりをめざした。近代合理主義的考え方では理解しがたい人物であり、また、物質文明に支配された今日では、なかなか現れることのない人物といえるでしょう。

 玄洋社の始まりは自由民権運動です。獄舎から出てきて、自給自足の生活をしている時に、大久保利通が紀尾井坂で暗殺されたことを来島恒喜が頭山満に伝えます。頭山はくわを投げ捨てて走り出し、西郷隆盛とともに征韓論を説いていた土佐の板垣退助のもとを訪ねます。この時、「これからは武力ではなく、言論だ」と諭されて、福岡に自由民権運動を持ち込みました。その後、自由民権運動をやっていたけれど、政府に先手を打たれる形で帝国議会を開くことが決まり、運動は四分五裂となります。しかし、玄洋社は、他の民権団体と違って、幕藩時代に列強諸国と結んだ不平等条約の改正も大きなテーマとしていましたから、条約改正運動に軸足を移します。思想が変わったのではなく、周りの状況が変わっていったということです。

頭山満は「西郷の心、是れ天の心」というほどに西郷隆盛を崇拝していました。西郷は島津斉彬の直弟子で、島津斉彬はロシアや世界全体の動向を見渡していた人物です。玄洋社がこの世界的な広い視野をもった民権団体であったことは、他の民権団体にない特徴です。西郷は、未開蒙昧の国に残忍にふるまい、己を利するような国は野蛮であると厳しく批判し、弱肉強食から共生への文明の転換を希求してきました。玄洋社は、そういう西郷の遺訓をそのまま継いでいたのです。そう考えると、彼らの行動の説明がつきます。自由民権運動家の多くは、政府に入ったり、政党をつくったりして政治に加わっていきますが、玄洋社は、在野での活動を貫きました。政府に対しては、つねに是々非々です。私益や党利ではなく、筋を通した活動を続けたのは、「日本という船がどちらに傾いても元に戻す役割をするため」でした。 この言葉は広田弘毅が「どうして浪人のままでいるのですか」と問うた時の頭山満の答えとして残っています。義に従って動くために、浪人であることが必要だったのです。これは、「今、日本に必要なこと」をその時その時に選んでいたということです。失敗もあったと思います。ただ、これを評価するのは後知恵に過ぎません。土台にあったのは、西郷の遺訓に沿った「日本の真の独立を目指す」ということです。そのために声を上げ、議論をして、行動したのです。

以後の特徴的な動きは、植民地支配からの独立をめざすアジア同胞の助太刀です。支援の手は、朝鮮、中国、フィリピン、インド、アフガニスタンにまで伸びています。アジアだけでなく、エチオピアなど有色人種全体の解放にも向かっていきました。
  政党があり、多数決で決まる今の世の中では分かりにくい感覚ですが、たった一人の人間が一対一でことを運んでいます。お互いに相通じるものがあれば、それが出来たのです。イデオロギーや思想を超えた理屈抜きの付き合いです。義理と人情の世界というか、とても日本的、アジア的な感覚です。そういう頭山を頼って、世界中から人が集まっていたのです。戦後、右翼の頭目のような捉え方をされてきましたが、これは単にGHQ玄洋社国家主義団体と指定しただけのことです。団体として大東亜戦争にはなんら関与していませんし、むしろ、最後まで日中和平の試みを続けていたのが玄洋社でした。 先ほども申し上げたように、条約改正運動以降の玄洋社政治結社ではなく、頭山満とその仲間たちという形になり、やっていることもバラバラになりました。ただ、それぞれの人物が自らの信ずる道を貫いています。GHQはその中心となっている頭山満を封印したかったのだと思います。それは、日本人そのものが目指してきた もうひとつの日本 がそこにあったからです。 もうひとつの日本 とは、西郷隆盛が目指していた精神的に日本人皆が武士になるような世界、国民一人ひとりが自立し、真に独立した日本ということになろうかと思います。明治新政府では西郷が下野して、急速な欧化政策が進みます。頭山は西郷の遺志を継いで、西郷の目指した もうひとつの日本 、本当の尊皇攘夷を求め続けたのだと思います。頭山満は折り目正しい人なのに、西南戦争の二年後、鹿児島の西郷家を訪れて西郷隆盛の愛読書を無断で持ち帰ったと資料にあります。頭山満はまだ素性の知れない二十四歳の青年でした。一年後に返却するまで、その本を肌身離さず持っていたといいます。西郷自筆の書き込みがある本を懐に抱いて、西郷精神を体内に取り込んだのでしょう。  頭山満は門下生たちに「一人でも淋しくない人間になれ」と言っていました。それは「自ら光を発するような人間になれ」ということだと解釈しています。人との付き合いも「自ら光を発している人間か」という基準があったように思います。孫文金玉均杉山茂丸も、皆そうでした。徒党を組んで何かをやるのではなく、自ら光を発し、「千万人といえども吾行かん」という人間が好きだったのです。

 頭山満は昭和十九年に亡くなり、葬儀には二万人が参列したと言われています。それだけたくさんの人が集まったのは、頭山が無色透明であり、見る人の写し鏡だったからで、自らをピカピカに磨いていたからだと思います。人間は悩んだ時に鏡に向かって自分自身に問いかけるものですが、頭山がそういった存在であり、会えば答えが見つかるから、人が集まってきたのではないでしょうか。ただ、頭山は、多くを語らず、結論のみを述べ、それも暗示的なものだったようです。本人も山に篭って熟慮することを繰り返していた人ですから、人もよく見て、洞察していたはずです。そんな頭山の人脈づくり、人づくりが玄洋社を豊富な人材を輩出する組織にしたのです。そして、ひとたび出会った人とは最後までとことん付き合い、決して人を使い捨てにはしませんでした。中江兆民も大井憲太郎も末期の水を取ったのは頭山です。 頭山満という人は知れば知るほど魅力的に見えてきます。まだ、調べ足りないことも多く、研究途中です。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150808#1439030210
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150808#1439030220
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150308#1425810844
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20091222#1261463700
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20081117#1226880029


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