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 DAIGOの実父である内藤武宣氏は戦後最大の経済事件といわれたイトマン事件に関連し大きな役割を果たした一人だった。


 1991年に発覚したイトマン事件は、大阪の商社「イトマン」を舞台に不透明で巨額な絵画取引や不動産融資が行われ、3000億円以上の金が闇に消えた巨大不正経理事件だ。この事件で6人が逮捕起訴されたが、中でも大きくクローズアップされたのが裏社会と太いパイプをもったフィクサー許永中の存在だった。


 許は自身が保有していた絵画など676億円をイトマンに購入させたとして同年特別背任で逮捕されたが、しかしイトマン事件以前、許や事件に関連した多くの闇紳士たちが跋扈し、食い物にしたのが京都の放送局「KBS京都」だった。


 83年、京都新聞グループ(京都新聞KBS京都など)の創業3代目社長だった白石英司氏が急死したが、その後、英司氏の不動産投資の失敗による多額の簿外債務が発覚、また新社長となった内田和隆氏に創業者未亡人である白石浩子氏が反発したことで内紛が勃発した。この内紛に介入し、経営再建に乗り出したのが許だった。85年には簿外債務処理のためにKBSが出した約束手形闇金融に流れたが、それを回収した許は、KBS本社内に企業を旗揚げするなど、事実上KBSの実権を握っていく。


 そして89年には社長だった内田氏を副社長に降格させ、代わりに政商・福本邦雄を社長に招聘する。福本は自民党と経済界の橋渡し役として、また竹下登の盟友として知られた戦後最後のフィクサーと言われた人物だ。政財界だけでなく官界やマスコミ、また広域暴力団住吉会にまで太いパイプを持っていたが、そんな福本と同時にKBSに乗り込んだのが他でもない竹下の娘婿でありDAIGOの実父である内藤武宣だった。


 許の評伝『許永中 日本の闇を背負い続けた男』(森功講談社)には、KBSに乗り込んだ内藤についての記述も存在する。


 38年に福岡で生まれた内藤は早稲田大学から毎日新聞の政治部記者となった。


「政治部記者として首相官邸をはじめ、与野党や各省庁の取材に駆け回っているうち竹下と出会う。そこで、竹下に求められたと伝えられる」 


 こうした関係から内藤は竹下の次女であるまる子と結婚、生まれた3人の子どもの末っ子がDAIGOだ。


 内藤は72年に毎日新聞を退社しその年の総選挙に出馬、落選した後は義父の竹下のもとで様々な働きをしていく。


「落選後は、竹下の私設秘書として働き、創政会を旗揚げしたときには、後援機関誌「創政」の編集長を務めた。内藤は竹下の庇護のもと、フジインターナショナルアートの顧問という肩書きを得て、政界を泳いでいく」


 そして竹下の盟友・福本が主催した三宝会(竹下が最高顧問で、日本を代表する企業のトップやマスコミ幹部など錚々たる人脈で構成された親睦団体)の事務局長をつとめ、さらに内紛と謀略渦巻くKBSの常務に就任したのだ。

 だが許グループのKBS支配は大きな爪痕を残した。89年許はノンバンクからゴルフ開発会社に146億円の融資を受け、その際KBS社屋や土地、さらには放送機材まで放送局まるごと担保に設定したことが発覚、このことでノンバンクが競売申請をされることになる。また許だけでなく、福本そして竹下の陰もが指摘された91年のイトマン事件が勃発したことで、その直後に福本と内藤はKBSから手を引き退任する。


 そしてイトマン事件に巻き込まれた形となったKBSは経営が悪化し、94年には会社更生法を申請し事実上倒産した。これは民放放送としては初の経営破綻という異常事態だったが、翌年の95年にはイトマン事件関係者を排除するなどの更正計画が認可されたことで、廃局は免れている。

 これら一連の内藤の動きは、もちろん義父・竹下登の存在なしには語れない。長女の一子が金丸信の長男と結婚したこともあり、竹下の首相在任を機にDAIGO一家は旧竹下邸に移り住むなど竹下の三人の娘のなかでも関係が深いが、DAIGOの父親は私生活だけでなく、その政界のダーティな利権をそのまま引き継ぎ、最も深く関与する存在だった。

DAIGO - Wikipedia

本名は内藤 大湖(ないとう だいご)。

父は毎日新聞政治部記者を経て、竹下登の秘書を務めた内藤武宣。

京都放送 - Wikipedia

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