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清原和博 世間が作る「番長イメージ」も彼を追い込んだ - ZAKZAK

 「ちょうど清原が結婚した年でしたね。2000年のシーズンが終わって、オフに入ったとき。清原がいつもつるんでたワルの遊び仲間から、“清原さんがオフに入ったんで、コークをわけてほしい”って連絡が知人に入った。“コーク”っていうのは、コカインのことです。


 清原といえば当時の大スター。カネもあるし、断る必要もない。ブツを用意して待ってたら、真夜中に清原本人が受け取りにきて、コーク30グラムを100万円しないぐらいで買って“いつもお世話になってます”とニコニコ挨拶していたらしいです。もうその頃には、罪悪感なんて微塵もないですよ。その何年も前から、当たり前のように使っていたそうですから」


 PL学園時代、4番打者として2度の夏の甲子園大会優勝(1983年、1985年)を果たし、「天才打者」の名をほしいままにした清原は、1986年に西武ライオンズに入団した。脇目もふらずに野球に明け暮れた地道な高校時代とは違い、高額年俸を受け取るプロの生活は自由で華やかなものだった。そんななか、ある薬物に出会ったという証言をする人物も現れた。


 「キヨさんは西武時代から東京・吉原にある高級ソープランドに通うようになりました。そこで、ある暴力団関係者と親しくなり、彼と一緒に覚えたのがエクスタシーと呼ばれる、性行為の時に使うと何倍も気持ちよくなるという合成麻薬だったんです。1995年頃だったでしょうか」(清原の旧知の知人)

 「巨人に移籍した最初の数年はオフシーズンに少量を使用するという程度だった。しかし、2000年ぐらいから肉離れを頻発して結果が残せなくなるとコカインや、さらに強力なシャブ(覚せい剤)を使うようになった。それを使えば、一時的にでもプレッシャーから逃げることができる。それでも、キヨさんは何度も何度もクスリを絶つことで再起を図ろうとしていました」(前出・知人)


 この頃から清原はメディアから「球界の番長」と呼ばれるようになる。気性が荒いとされる大阪・岸和田出身であることや、肉体改造による見た目の変化で、後輩選手たちを従えているように見えたからだ。清原を間近で知る人は「優しくて、どちらかというと気の小さい人」と口を揃えるが、世間が作る“番長イメージ”が彼をさらに追い込むことになる。


 「キヨさんの周りにその筋の人たちが群がるようになってきました。“お前のどこが番長なんだ”とキヨさんを小突いたり、逆に“ファンやからおれの子分にしてやる”と仲間に引き入れようとする暴力団関係者もいた。


 その上、“クスリをやっていたことをバラされたくなければカネを払え、言うことを聞け”と脅す連中も現れたんです。そうなると対処の仕方は2つしかありません。警察に相談して薬物使用も告白するか、それとも、裏の世界でさらに力のある暴力団関係者や組織に頼るか。前者の選択をすることはありえず、がんじがらめになっていた」(前出・知人)

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