https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

特集 用語集|NHK大河ドラマ『真田丸』

海士淵(あまがぶち)
上田城の南側には千曲川の分流があり、天然の堀となっていた。この場所を「海士淵(尼ヶ淵)」と称した。

真田昌幸は、上田城をいつ、どのようにして築城したのか?―最新研究で謎を解く! | PHPオンライン 衆知|PHP研究所

 真田昌幸の城、といえば上田城が有名です。昌幸がその築城を始めたのは、天正11年(1583)4月のことです。これは、4月13日付の上杉景勝が書いた書状に「真田が海士淵(尼ケ淵)を取り立てて築城を始めた」とあることからわかります。ここに登場する「海士淵」(尼ヶ淵)には、かつて小泉氏の拠点・尼ケ淵城があり、その古城跡があったといいます。昌幸がこれに目を付け、大規模に拡張、改修したのが上田城とされます。


 上田城は、真田氏の新たな居城として築城が始められ、やがて近世城郭として豊臣時代、江戸時代に受け継がれたとされてきました。ところが2008年、元上田市立博物館館長の寺島隆史氏の研究により、もともとは徳川家康が徳川軍に命じて築城させた徳川氏の城で、後に昌幸に下賜されたものだという衝撃的な事実が明らかとなりました。

上田城 - Wikipedia

上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった。

上田城は、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により、1583年(天正11年)に築城された平城で、真田昌幸が、1585年、1600年と二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退した上田合戦で知られる。しかし、第二次上田合戦の直後、1600年の関ヶ原の戦いにて、真田昌幸、信繁父子が属した西軍が負けたため、上田城は徳川軍に徹底的に破却され、堀も埋められた。


江戸時代には上田藩の藩庁が置かれていた。関ヶ原以降に同地を領した真田信之はしかし、上田城は破却されていたため元々の居城である上野国沼田城を本城とし、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて統治を行った。この頃、城下町の整備が行われた。真田信之は徳川氏の幕府に対し、元和7年(1621年)に城の再整備・拡張を申請するが却下され、元和8年(1622年)9月には信濃国松代へ転封された。後は小諸藩より仙石氏が移封された。仙石忠政[1]は破却されたままの上田城の再建を申請し、寛永3年(1626年)から現在の上田城が普請されることとなった。

明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓(西櫓)が1棟残るのみであったが、昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されている。

上田虚空蔵山・和合城阯〜人跡薄い盛夏の里山稜線、座摩神社コースから坂城鼠宿へ [山行記録] - ヤマレコ

虚空蔵山城 −信濃の城ー

信濃・虚空蔵山城(城郭放浪記)

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160306#1457261454沼田城1)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160214#1455446630沼田城2)


家康の黒歴史「しかみ像」がまさかの立体化!しかも等身大フルカラー - ニュース - Jタウンネット 静岡県

徳川家康三方ヶ原戦役画像」、別名「しかみ像」

現在は名古屋市東区徳川美術館に所蔵されている「しかみ像」を元に制作した、等身大の立体像が、2015年2月20日浜松市中区にある同市博物館でお披露目された。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160312#1457779389(「コミュ力だけ就活生」は、もう通用しない)