いま世界の哲学者が考えている「5つの問題」とは?|いま世界の哲学者が考えていること|ダイヤモンド・オンライン
こうした時代転換に匹敵する出来事が、まさに現代において、進行しているのではないでしょうか。たとえば、20世紀後半に起こったIT(情報通信技術)革命やBT(生命科学)革命は、今までの社会関係や人間のあり方を根本的に変えていくように見えます。
また、数百年続いてきた資本主義や、宗教からの離脱過程が、近年大きく方向転換しつつあるのは、周知の事実となっています。さらに、近代社会が必然的に生み出してきた環境問題も、現代においてのっぴきならない解決を迫っています。こうした状況をトータルに捉えるには、どうしても哲学が必要ではないでしょうか。
今回はそんな現代において哲学者が取り組んでいる以下の「5つの問題」について概観したく思います。どの問題も、根本的な問題ばかりなので、解決には程遠いかもしれませんが、少なくとも問題の所在については確認できると思います。
(1)「IT革命」は、私たちに何をもたらすか?
(2)「バイオテクノロジー」は、私たちをどこに導くか?
(3)「資本主義」という制度に、私たちはどう向き合えばいいか?
(4)「宗教」は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?
(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっているか?
もともと、個人(individus)という言葉は「分割不可能」という意味だったのですが、「管理社会」では個人はその都度細分されていき、その情報が記録されていきます。つまり、個々人は、断片的な情報にまで分割され、それらがたえず記録されていくのです。
カードで買い物をし、ナビを使って車で移動し、パスモで電車に乗り、Googleでネットサーフィンを行ない、Twitterで発信し、メールで商談をする─このそれぞれの行動は、逐一管理されていくのですが、おそらく私たちには管理されているという意識はないでしょう。
現在でもゲノム編集をはじめとして、人体の改変はどこまで許されるのか――「ポスト・ヒューマン」をめぐる議論が哲学者の間で活発に交わされています。
フクヤマは、西欧の「リベラルな民主主義」、経済的には資本主義が最高の段階と見なし、今日まさに「歴史の終わり」が実現したと考えました。この見方からすれば、資本主義は永続し、「近代」という時代は終わらないように見えます。
しかしながら、今日では、フクヤマのように、資本主義の千年王国を信じることは、もはや不可能ではないでしょうか。ピケティが問題にしたように格差拡大は今後も社会対立の火種となりうるリスクを抱えることでしょう。その他にもフィンテックという金融資本主義にまで及んだIT革命の影響や、グローバル経済が必然的に抱えるパラドックス、ベーシックインカムが導きだす「自由」をめぐる根源的な問題まで、哲学的思考を必要とする問題は山積しています。
およそ100年前、ドイツの高名な社会学者マックス・ウェーバーは、西洋近代を合理化の過程と理解し、「世界の脱魔術化」という表現で規定しました。
じっさい近代になると、西洋では宗教的権威から独立した世俗的な国家が形成され、資本主義経済が社会的に浸透したのです。また、啓蒙精神にもとづいて、宗教的な偏見が取り除かれ、近代科学が発展したことは、今や常識となっています。
そのため、この傾向が続いていけば、やがて宗教の力は弱体化する、と考えられました。こうした理解を受けて、20世紀には、西洋近代を「世俗化の時代」と見なすことが、一般的になりました。
たとえば、アメリカの社会学者ピーター・L・バーガーは、「世俗化」という概念を社会と文化の諸領域が宗教の制度や象徴の支配から離脱するプロセスと定義し、現代社会をこうした世俗化の時代と考えたのです。たしかに、ヨーロッパでは、キリスト教の果たす役割が低下しているのは明らかです。
ところが、21世紀を迎えるころから、こうした世俗化の状況が世界的に転換し始めました。南米やアフリカでは、宗教を信仰する人々が増加しつつあります。またヨーロッパでも、キリスト教信者の割合が低下したとはいえ、逆にイスラム教の信仰者は増えているのです。さらに、アメリカでは、主流派プロテスタントは減少していますが、原理主義的な福音派はむしろ増加傾向にあります。
こうした状況を踏まえたうえで、ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックは次のように明言しています。「21世紀初頭に見られる宗教の回帰現象は、1970年代にいたるまで200年以上にわたってつづいてきた社会通念〔世俗化理論〕を破るものだった」。
異なる宗教との共存をめぐるモデルや、人間にとって宗教とは何であるかを科学的に解明しようとする試みなど、哲学的議論は今後さらに活発化していくはずです。
1970年代以来、地球環境問題が人類にとって重要な課題と認識され、国連をはじめ多くの国や組織で、繰り返し議論されてきました。たとえば、2015年末にフランスで開催されたCOP21でも、20世紀末の「京都議定書」に代わる新たな枠組みが提唱されたことは、ご存じのことでしょう。
こうした「地球環境問題」が語られるとき、いつのまにか「定番話」――世界の生態圏は人間によって破壊され、やがて地球は人間にとっても生存できない環境になる――が形作られるようになりました。そもそも、「定番話」が警告するように、はたして環境破壊によって、人類は滅亡するのでしょうか。
この問題を考えるためには、どうして20世紀後半に、「地球環境問題」がクローズアップされるようになったのか、理解する必要があります。というのも、「地球環境問題」が唱えられるようになったのは、近代社会の変化と密接にかかわっているからです。そして、この変化を捉えることによって、「定番話」とは異なる未来への展望も開かれるのではないでしょうか。
人間中心主義はそもそも「悪」なのか、道徳と切り離した形でプラグマティックに環境を考える態度の必要性など、この領域もまた様々な議論の余地が存在します。