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「漢唐以来ということは、孔子の学が儒学となり、皇帝的国家の正統の学となって以来ということである。『書経』を中心とした六経的世界こそ国家の正統的な古典的世界とされたということであろう。朱子はこの国家的な古典(経書)を四書五経として再構成した。すなわち孔子以前の経書五経)と孔子以後の経書(四書)として。『論語』はその四書の中に置かれた。しかしその四書も『大学』『中庸』『論語』『孟子』というように国家の政治哲学というべき『大学』を第一にして構成されている。これが国家の士大夫の学としての儒学の学間体系でもある。」これが『論語』の至上性によってゆるがせられ、革新されなければならない儒家既成の教説体系であり、思想体系である。

「夫れ高きを窮むるときは、則ち卑きに返り、遠きを極むるときは、則ち必ず近きに還る。卑近に返りて後、其の見始めて実なり。何ぞなれば則ち卑近の恒に居るべくして、高遠の其の所に非ざるを知ればなり。所謂卑近とは本卑近に非ず、即ち平常の謂いなり。実に天下古今の共に由る所にして、人倫日用の当に然るべき所。豈此れより高遠なるもの有らんや。もし夫れ卑近を厭いて、高遠を喜ぶものは、豈天下万世に達して、須臾も離るべからざるの道を与に語るに足らんや。学者必ず此れを知りて、然る後に以て論語を読むべきなり。」


論語』が至上の聖典であるのは、日常卑近な人の道こそが「天下古今の共に由る所」の道であることをわれわれに教えているところにあると仁斎はいっているのである。『論語』はただ日常卑近な人の道を教えるというのではない。この卑近な人の道こそもっとも人間的な道であり、「天下古今の共に由る所」の普遍的な道であることをわれわれに教えるのである。それゆえ『論語』は至上の聖典だと仁斎はいっているのである。この『論語』を絶対的に選択するということは、この人間世界を日常卑近な人の道を根底としてとらえ返すことをいうのである。既成儒家の「四書五経」的思想世界が、あるいは『大学』を第一とする儒家の国家哲学的教説体系は、『論語』の至上性によって、すなわち日常卑近な人の道の普遍性によって読み直され、とらえ直されねばならないのである。それゆえ私は、仁斎における『論語』の絶対的な選択をいうあの八文字とは「思想革命」の提示だというのである。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160921#1474454128
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