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真田丸』では、又兵衛が黒田家に仕えていた時代は描かれていませんが、ドラマの撮影前に大阪や兵庫、九州にある後藤又兵衛ゆかりの地を旅することができました。とにかく各地での愛され方が半端ではないですね。“イザコザがあったから1万6,000石を捨てて城を出た”なんて言われてますけど、何か違う、隠れた経緯があったんじゃないかな。又兵衛は大坂城に入るまでの間、行く先々で手を差し伸べられ、コソコソするわけでもなく堂々と歩いて行ったような感じだし、やっぱり人望があったんでしょうね。

ゆかりの地で会う人たちも、又兵衛がまるで昨日まで生きていたかのように話してくれるんですよ。それぞれの又兵衛像をこちらにぶつけてもらえると、僕の中でも一つの像が出来上がってきて、役に入りやすくなります。

みんなには家や信仰、忠誠心など、それぞれ引きずっているものがあるけれど、又兵衛は何もない一匹狼です。お呼びがかかった時に、自分自身の存在価値を認めてもらえて、生きがいを感じたんだろうね。
又兵衛には天下をひっくり返そうという思いはなく、その組織の中でどう立ち回ればいいかなんてことも考えていません。自分の価値を認めてくれる人に仕えることで、自分の生きる道を貫き通したのだと思います。

第43回「軍議」で又兵衛は、大坂城に来た理由を「死に場所を探しに来た」なんて言ってるけど、本心ではありません。死ぬ思いでやらないと、この大戦は勝てない、という気持ちから出た言葉です。又兵衛は最後の最後まで勝とうとした。個人の勝ちではなく、全体の、豊臣の勝ちにこだわっていたと思います。

“死に場所”を探すだけなら簡単です。上のいいなりになって、逆らわずにただ突進していけばいいんだから。又兵衛があれだけ何度も幸村や治長たちに食ってかかるのは、真剣に勝とうと思っているからです。相手がどれだけの技量があるか試すために、食ってかかるわけです。多分「死ぬ思いでやる」だと説得力がないんだよね。「死に場所を探しに来た」、つまり「死にに来た」と言う方が、より覚悟を表すことができて説得力があった。そう解釈しています。

又兵衛は戦いに対して真っ当に挑んでいるという気がします。死ににいっているのではなく、生きている。最後に向かった時、死に向かっていない感が出せればいいと思います。


治長にとっての大坂城というのは、職場であると同時に生活の場です。母・大蔵卿局と弟・治房も、共に大坂城で暮らし、豊臣家を愛し、そして、支えています。物事一つを決めるにしても「あの母」がいちいち出てくるというのは、とてもやりにくかったに違いありません。しかし、時間とともに治長も常に成長しているので、この後、母との関係も変わり、弟との関係も変わっていきます。中間にいて右往左往する役なので、状況によって変わっていく部分も大きいかもしれませんね。自分も1シーンごとに変わっていき、全ての出番が終わった時、治長がどうなっているのか、とても楽しみです。


真田丸とは、幸村が大坂冬の陣で築城した出城の名前。タイトルの由来は、それプラス、真田一族を戦国の荒波に立ち向かう一艘(いっそう)の船と見立て、掛けているそうです。

これまで、真田丸は「守りのために作られたもの」という印象でしたが、最新の研究によって、もっともっとスケールが大きい「攻撃のための“独立した”お城」だったということが分かったそうです。大きさは南西220メートル、南北230メートル。
真田丸本体は、周囲にぐるりと塀がめぐらされています。上下二段になっていて、1階からも2階からも、2段で鉄砲射撃を浴びせられる構造。2階はテラス式で行き来が自由、1階部分は屋根つきなので、雨の日も火縄銃の発射ができるという工夫が凝らされていたようです。


描き直すこと6回。VFXコーディネーター・深瀬雄介が描いた真田丸のイメージスケッチ。このイメージスケッチを元に考証的なご意見をいただき、出されたアイデアを盛り込んで、オリジナルのオープンセットとVFXを制作しました。

草を刈り、堀を掘り、そして、土を盛り上げて土塁を築くのにおよそ3週間。そこから塀や櫓(やぐら)などのセットを建てるのにおよそ1週間。トータルおよそ1か月の工期でオープンセットを制作し、当時の真田丸のおよそ5分の1を再現しました。

地形の不利を解消し、真田丸に向けて鉄砲を放って攻撃するために徳川軍が築いた築山も再現。考証チームの先生方が絶賛するクオリティーの高さです。

VFXによって砦(とりで)の周囲を囲み、真田丸を再現。奥には大坂城を描きました。