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井伊谷藩 - Wikipedia

井伊谷の歴史は古い。南北朝時代には義良親王宗良親王北畠親房らが奥州に逃れて再挙を図ろうと伊勢から出港したとき、航行中に遭難して漂着したのが、井伊氏が支配していた井伊谷であった。井伊氏は国人領主として南朝に与し、戦国時代に入ると今川氏の家臣となったが、今川義元桶狭間の戦いにおいて織田信長の前に敗死すると、後継者の今川氏真に信長との内通を疑われて時の当主・井伊直親は氏真が派遣した朝比奈泰朝の軍勢によって殺されてしまった。これにより井伊氏は一時的に滅亡する。


井伊氏はその後、孤児となった直親の遺児井伊直政徳川家康に仕えて武功を挙げ、徳川四天王の一人となることで再興する。

井伊直政 - Wikipedia

井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩彦根藩)の初代藩主。

現在の群馬県高崎市滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。

永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。幼名は虎松。井伊氏は先祖代々、井伊谷国人領主であり、当時の井伊家当主である井伊直盛(直政の父の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。父の井伊直親は、直政の生まれた翌、永禄5年(1562年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。当時、虎松はわずか2歳であったため、新たに直親の従妹に当たる祐圓尼が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となった。

天正2年(1574年)、直政が父の13回忌のために龍潭寺に来た時、祐椿尼、井伊直虎龍潭寺住職・南渓瑞聞、直政の母が相談し、徳川家康に仕えさせようとするが、まずは鳳来寺に帰さないために直政の母が松下源太郎に再嫁し、直政は松下家の養子になったことにしたという(『井伊家伝記』)。天正3年(1575年)、家康に見出され、井伊氏に復することを許され虎松を万千代と改めた。さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられた。

天正10年(1582年)、22歳で元服し、直政と名乗る。この年、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する(結婚は天正12年説あり)。同年の本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、滞在先の堺から三河国に帰還する。天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し、家康が武田氏の旧領である信濃・甲斐を併呑すると、武田家の旧臣達を多数に付属されて一部隊を編成することとなり、士大将になった。これにより、徳川重臣の一翼を担うことになる。その部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、その代表が山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を継承した井伊の赤備えという軍装であった。また、同時に井伊谷4万石に加増されたという説あり。このころから、「兵部少輔」を称する(「兵部大輔」とあるのは誤記)。


天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになる。また小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えを纏って兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた[注釈 5]。 同年2月27日付で修理大夫に任官された。 天正13年(1585年)、真田攻めの撤退を指揮するために上田に派遣される。この後、井伊谷6万石に加増されたという説あり。

直政は新参ながら数々の戦功を評価され、天正18年(1590年)の小田原征伐では数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ武将としてその名を天下に轟かせる(『北条五代記』)。

慶長3年(1598年)、直政が番役として京都にいる家康のもとにいたときに秀吉が死去し、この後の政治抗争で直政は豊臣方の武将と交渉を引き受け、家康の味方に引き入れることに成功している。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけにより、京極高次竹中重門加藤貞泰稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込んだ。

しかし、退却する島津軍を百余騎率いて追撃し、遂に義弘の目前まで迫り、義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍の柏木源藤が撃った銃弾が右肘関節(記述によっては右肩または左腕)に命中し落馬してしまう。

西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和交渉役を務め、輝元からは直政の取り成し、特に、周防・長門の2ヶ国が安堵された事に感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文を送られている。

真田昌幸と次男・信繁(幸村)の助命にも尽力した。これは、東軍に味方した昌幸の長男・真田信之の懇請を受け入れたもので、信之は将来まで徳川家に尽くすだろうと考えての行動だったという。

これらの功によって、石田三成の旧領である近江国佐和山滋賀県彦根市)18万石を与えられ、従四位下に任官された(『井伊家譜』)。 家康は、西国の抑えと非常時に朝廷を守るため、京都に近い彦根に徳川最強の軍団である井伊家を配したと伝えられ、これを見ても徳川家から強い信頼を受けていたと考えられる。

その後、彦根城の築城が開始されると同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となり、代わってこの地には新たに彦根藩(30万石)が置かれた。それ以来、彦根藩は明治時代になるまで井伊氏の藩として大いに栄えることとなった。

井伊氏 - Wikipedia