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井伊直親 - Wikipedia

永禄3年(1560年)、従兄であり養父でもある直盛が桶狭間の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。しかし当時の遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態にあり、直親は小野政直の息子・小野道好(政次)の讒言により、主君の今川氏真から松平元康(のちの徳川家康)との内通の疑いを受ける。縁戚であった新野親矩の取りなしで、弁明のためにわずかな供で駿府へ向かう道中の永禄5年12月14日(1563年1月8日)または同年3月2日、掛川で今川家の重臣朝比奈泰朝の襲撃を受けて討ち死にした。享年27。


これにより井伊氏は一時的に衰退した。家督は養父直盛の娘でかつて許嫁であったとされる直虎が継いだ。嫡男の虎松は三河鳳来寺などにかくまわれ、15歳の時に徳川家康に仕えるとともに直虎に代わって当主となり、のちの徳川四天王である井伊直政となった。また、遠江国が家康の支配下になった後、直親の無実が証明され、讒言した小野道好は獄門になっている。

小野道好 - Wikipedia

隣国三河国では徳川家康が今川氏を離反し、今川氏を破った織田氏と同盟を結んだ。この頃になると直親も徳川氏に心を寄せ、密かに内通していたという。道好と直親は、父同士が因縁もあり関係は不仲だった。道好は井伊谷を横領しようと画策していたとされるが、直由が後見役に収まっていたために果たせずにいた。そこで直親の内通を知った道好は、永禄5年(1562年)に駿府今川氏真に直親が織田・徳川氏に内通している旨を密告した。氏真は直親追討の軍を挙げようとしたため、直親は氏真へ陳謝するために駿府へ向かうが、途中の掛川にて今川氏重臣朝比奈泰朝によって殺害された。道好は氏真の命を奉じて直親の遺児・虎松(後の井伊直政)も討たんとしたが、井伊氏に近い今川家重臣新野親矩によって阻まれた。その後、永禄6年(1563年)には井伊直平が死去し、永禄7年(1564年)には中野直由が戦死した。井伊谷を預かっていた直由が亡くなり井伊谷城が無主となったため、井伊氏は直盛の娘である次郎法師井伊直虎)を当主とした。


永禄11年(1568年)、甲斐国武田信玄が今川氏の本国・駿河国に侵攻した。これに際して道好は駿府で今川軍に従っていたが、虎松を殺害して井伊谷を掌握し、その軍勢を率いて加勢するよう氏真より命じられる。道好はその命を奉じて井伊谷に入り、井伊氏より井伊谷を横領する事となった。虎松や次郎法師、直盛後家の祐椿尼は井伊氏菩提寺龍潭寺に入って難を逃れている。だが徳川家康は道好の専横に対し、近藤康用鈴木重時菅沼忠久井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷を奪還させた。道好は敗北して井伊谷から退去し、近隣に潜伏していたが捕えられ、永禄12年(1569年)に堀川城攻撃の仕置きで、獄門を言い渡され井伊谷で処刑された。そのひと月後には道好の男子2人も斬罪となった。

新野親矩 - Wikipedia

主家・今川氏は桶狭間の戦いの後、急速に衰えており、今川氏の連枝から正室を迎えた三河国の松平元康などの離反が相次ぐ中、親矩は今川氏に忠節を尽くした。永禄5年(1562年)、同じ遠江国人であった井伊氏の当主・直親が小野道好の讒言により、謀叛の嫌疑を掛けられて今川氏真に暗殺された。親矩は井伊氏の縁戚であったこともあり、妹の娘で井伊家の家督を継いだ直虎や、直親の遺児である直政を保護している。このことは井伊氏の菩提寺龍潭寺の住職に「井伊氏1000年の歴史で、最大のピンチを救った」と評されている。

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