https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com


―― 当初は、広く「予言」をテーマにした本を考えられていたんですよね。そもそもどうして予言に興味を持ったんですか?


五島 それは、自分がクリスチャンの家に生まれて、母親からいろいろと聞かされてましたから。私の家のキリスト教は、ローマカトリックじゃなくてロシア正教です。ニコライ堂を建てたニコライ大主教が、明治時代、函館に上陸して布教を始めたとき、最初の信者の一人が私のおばあさんなんです。おばあさんは早くに死んじゃいましたけど、母に受け継がれた話の中に、黙示録や予言の話がありました。


―― それはどんなお話だったんでしょうか?


五島 海の向こうから怪物がゴーッと出てきて、人間をみんな飲み込んじゃうというような話でした。私が聞いたのは小学1年生くらいです。怪物そのものがいるとは思わなかったんですが、その怪物は何だといったら、これからのアメリカのことだと。


―― まだ戦争が始まる前ですよね。


五島 始まってないですね。今考えれば、それは黙示録の一部ですよ。でも、そんな話を聞かされていたから、ずっと後になってキリスト教の予言とかにもビビッとくるんです。

―― ノストラダムスの名前を初めて知ったのはいつ頃ですか?


五島 旧制高校のときですね。たしかフランス語の先生だったけど、いろんな話をしている間にちらっと一言だけ、16世紀のフランスにノストラダムスというすごい人がいて、王様がいつ死ぬとか全部予言したんだよ、ってことを話してくれたんです。その先生は、東京外語のフランス語科を一番で出た学識の深い人でした。あくまで別の話のついでに個人的に喋ってくれたというだけでしたけど。


―― 『大予言』を書くずっと前に出会ってるんですね。それから興味をもって調べ始めたわけですか?


五島 いや、その時はまだ高校生で、あまり興味もなかった。ノストラダムスと再会するのは、ずっと後です。旧制高校を出てからは、大学へ行きましてね。東北大学の法学部なんですけど、何も勉強しなかったから、どこへも就職できなかった。でも、たまたまアルバイトで書いた小説を買ってくれる東京の出版社があってね。エロ小説みたいなものでしたが、数ヵ月に1回採用されて原稿料をもらえました。それで大学を出ても就職ゼロが決まった時、その出版社に電話をかけて、「私はこれから一文無しでそっちへ行きますが、食べさせてくれますか?」って正直に言ったら、「それじゃあ、いらっしゃい」と言ってくれました。


―― 今だと考えられない話です。五島さんに何か光るものを感じたんでしょうね。


五島 いや、たまたま親切というか、太っ腹の編集者に出会えたんだと思います。それでありがたく上京して、小さな物置みたいなところを借りて、ものを書いてました。そしたら、幸いにして週刊誌ブームも始まったんです。


 ちょうどその頃ですよ。古本屋かどこかにあった誰かのエッセイの中に、ノストラダムスの4行詩の訳文が1、2篇紹介されているのを見つけたんです。「あっ、これはどこかで聞いた名前だ」と、ビビッときた。それから、週刊誌の仕事をしながら、少しずつ調べるようになりました。

―― なるほど。そういった蓄積があって、『大予言』が誕生したんですね。発売の翌年には100万部を突破し、映画にまでなりました。映画版をご覧になっていかがでしたか?


五島 良い映画、悪い映画ということを越えて“変わってる”と思いました。


―― 変わってる映画ですか?


五島 本が売れた段階で、東宝がぜひ映画にしたいと言ってきたんです。だけど、彼らの根底にはゴジラ体験があり、優秀な人たちだったけど話が合わなかった。彼らはゴジラ的な恐怖娯楽を入れたい。私はもっとリアルな国際政治を入れたいと思ったけど無理でした。しかも主演が丹波哲郎さん。「俺のライフワークにする」とか言って熱演して、最後は丹波哲郎の演説で終わりました。結局、ノストラダムスの映画なのか丹波哲郎の映画なのか、分からなくなりましたね。


―― それはそれで興味深い(笑)。しかも文部省の推薦映画で。今では「封印作品」となって、見られないのが残念です。映画以外にも、『大予言』出版以降、数々の類似本が出ていますが、そちらはどうでしたか?


五島 それと関連しますが、最近、講談社の編集者から連絡があって知ったんですが、水木しげるさんがとても面白い漫画を描いてるんですね。


―― ああ、『水木しげるノストラダムス大予言』ですか。


五島 水木さんの全集の解説を書いたんですが、私の思想とか考えについて肯定的にとらえてくれたのは水木さんだけです。すごいアイデアをそこからもらいました。


―― 漫画が一番よかったというのは、面白いですね。


五島 一番いい。どこがいいかはその漫画のあとがきに書かせてもらいました。やっぱり水木さんってすごい才能のある人だなと思いました。

―― このことは聞いておかなければと思うんですが、五島さんの『大予言』シリーズで繰り返し言われたのは、1999年の7の月ですよね。今、あらためて1999年7月と書かれたことについて、どのように思われていますか?


五島 弁解するわけではないんだけど、私は「大予言」シリーズの初巻の最後に、「残された望みとは?」という章を書いていて、予言を回避できる方法がないか考えようと言ってるんです。もちろん、米ソの対立とか核戦争の恐怖とかがあって、ノストラダムスが警告した状況が来ることは間違いない。それは破滅的なことかもしれないけど、みんながそれを回避する努力を重ねれば、部分的な破滅で済むんだということを書いたんです。だからこの本は、実は部分的な破滅の予言の本なんです。


 だけど、私がこの本を書くとき、ノンフィクション・ミステリーという手法に挑戦したことで誤解を生んでしまった。ミステリーが最後にどんでん返しをするように、初めに全滅するんだと書いておいて、最後になって人類が考え直して逆転して、部分的な破滅で済むんだと、それに向かって努力しなければならないと書いたんです。だけど、ここのところをみんな読まないんです。


―― たしかに多くの人が、1999年7月に全滅するんだと信じていましたね。


五島 ただ、私はそのことをちゃんと主張できるけど、当時の子どもたちがね。まさかこんなに子どもたちが読むとは思わなかった。なんと小学生まで読んで、そのまま信じ込んじゃった。ノイローゼになったり、やけっぱちになったりした人もいて、そんな手紙をもらったり、詰問されたりしたこともずいぶんありました。それは本当に申し訳ない。当時の子どもたちには謝りたい。

―― 五島さん自身は、1999年7月に何をされていたんでしょうか? 


五島 普通にしてましたよ。そのときの私の気持ちは、もうちゃんと落ち着いていました。1999年の7の月には何も来ないかもしれないと。でも、そういう事実がないということではなくて、多少の時間差の中では必ず何かが起こるはずだと思っていました。そしたら、2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが起きた。つまり、2年の誤差があったものの、ノストラダムス予言に近いことが実際に起きた。しかも9・11後、中国の進出や北朝鮮の核など、新しい切実な脅威が起こって、人類危機はいっそう深まってる。


―― 五島さんとしては、今もなお危機は去っていないということですね。現在の思いを率直に語っていただき、ありがとうございます。次に、五島さんが『大予言』へと至るまでのライフヒストリーを聞かせてください。


―― 『ノストラダムスの大予言』を書くまで、五島さんは週刊誌のライターとして長くご活躍だったんですよね。


五島 上京後しばらくしてから、出版社が次々と週刊誌を創刊する時代になりました。私は、光文社の『女性自身』に創刊号から書いてるんです。

―― 五島さんのライター時代のお仕事の中では、1970年頃に池田大作氏に関する本を書かれてますよね。これはどういったご関心からですか?


五島 最初の取っ掛かりは、別に大したことはなくて、周りに大作さんにインタビューした人がいなかったからです。それで、私がやってみたいと思ったんです。交渉してみたら、会ってくれるというんで、信濃町まで行きました。バラックと言うと怒られるかもしれないけど、粗末な板葺きの二階建てで、そこに創価学会本部もありました。


 大作さんに会った印象は、非常に精力的な人で、偉ぶったところが全くなかった。反権力みたいなものを感じましたね。それ以前に既成政党の幹部と会うこともあったけど、彼らは国民から金をかすめ取ってる官僚みたいな感じがしたんですよ。それに比べると、清新な感じを受けました。私は、「雑誌としてはどうだか分からないけれども、ライターとしてあなた方のことは好意的に見てます」と伝えて、それから付き合いが始まりました。でも、だんだん彼らが偉くなって、権力を持つにつれて、接し方が少しずつね。


―― だんだん壁ができた感じですか?


五島 そうですね。ただ、しばらくの間、創価学会というのを一つの新しい光みたいにこっちが見ていた時期がたしかにあるんです。でも、今の、自民党の言うことは何でも賛成で、アメリカと一緒になって軍備を増やすことにまで賛成する政党にどうしてなったんだろうというのはあります。

―― 終戦の時はどちらにいらっしゃったんですか? 


五島 北海道の十勝の新得の近くで農作業をやってました。アメリカ軍が入ってくれば中学生も戦わなきゃいけないというので、日曜日には戦闘訓練です。古臭い木箱を背負わされて、その中に大砲の弾を1発ずつ入れられるんです。20キロくらいあってすごい重い。


―― それは、要するに特攻のようなことですか?


五島 何かのときにはこれで戦車にぶつかれと。でも、できるわけないですよね。すごい重たいし、ヨタヨタ歩きですから。それをやらされたときに、日本の権力や軍隊というのは、なんてひどいことを強制するんだろうと思いましたよ。


―― 終戦の放送はどんな気持ちで聞かれたんですか? 


五島 聞きませんでした。新得というのは十勝の山の中ですから。道で出会った同級生から「日本は負けた」と知らされました。すぐそこにみんなで座り込んじゃって、どうしたらいいかというようなことを相談しました。ただ、いろんな日本人がいるものだと思ったのは、すぐにジャガイモを買い付けに来た商人がいたんですよ。


―― 8月15日の当日にですか?


五島 当日です。他に食料がないわけですから、もちろん儲かりますよね。だから、日本全体がどうすべきとか、みんな一緒になって行動しようとか、よく言うじゃないですか。だけど、やはり一人一人が終末的な状況と向き合って、各自それぞれのやり方で、そこから脱出することを考えておいたほうがいいな、と。

―― 今日は、個人的なこともたくさんお話しいただき、ありがとうございました。五島さんのお仕事の根っこの部分を感じられたように思います。今も何かお書きになってるんですか?


五島 黙示録をテーマにしたものです。まだ書いてませんけど。

―― とてもシンプルな仕事場なんですね。今でも手書きですか?


五島 ええ、私はずっと手書きです。


―― 最後になりますが、これからの日本に言い残しておきたいことがあるとすれば、どんなことですか?


五島 そうですね……。「終末を思う」というのは、自分の家族とか一番大事な人たちをどうやって守るかということなんですよ。この時代、​誰も守ってくれないわけですから。​さっきのジャガイモの話じゃないけど、この前の戦争の時も、戦後に立ち直った人というのは自分で考えていた人です。だから社会がおかしくなったとき、それに立ち向かっていく力を持つ人なら​、未来を切り開いていける​と思う。​私も長く生きてきましたけど、言い残しておけるとすればそういうことですね。「終末を思え、終末の先を切り開け、道は開かれる」

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180103#1514976152
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180103#1514976154
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180103#1514976155
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180103#1514976158
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180103#1514976166
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180103#1514981058
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170722#1500719951