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第二十四回「地の果てにて」|NHK大河ドラマ『西郷どん』

徳川家茂 - Wikipedia

徳川慶喜 - Wikipedia

安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変における井伊直弼の死を受け、万延元年(1860年)9月4日に謹慎を解除される。


文久2年(1862年)、島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ介入、7月6日、慶喜将軍後見職に、松平春嶽政事総裁職に任命させることに成功した。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行った。

将軍後見職 - Wikipedia

幕末に新設された政事総裁職京都守護職と並ぶ江戸幕府三要職の一つである。


安政5年(1858年)、年少の徳川家茂が14代将軍に就任したために、同年8月前将軍徳川家定の遺命と、同じく年少で将軍に付いた4代将軍家綱時の保科正之・11代将軍家斉における松平定信時の先例を名目に御三卿の田安慶頼が任命された。ただし、実際には大老井伊直弼が形式的に擁立したもので正式な役職でもなく、実権も有しなかった。


ところが、文久2年(1862年)5月、朝廷内部に幕府内の親井伊派の処分を要求する動きがあり、その対応の一環として「家茂の成人」を理由に井伊に擁立された田安慶頼が後見職から退いた。続いて朝廷より、一橋慶喜を幕府の正式な役職としての将軍後見職に任じるように勅諚が下された。これを受けて同年7月に慶喜が幕府の正式な役職として新設された将軍後見職に任命された。

松平春嶽 - Wikipedia

井伊直弼桜田門外の変で暗殺されると幕府の政策方針も転換し、春嶽は文久2年(1862年)4月に幕政への参加を許される。


朝廷では島津斉彬の死後、その弟の島津久光が兵を率いて京都へ上洛し、政局に積極的に関わっていた。久光は勅使の大原重徳とともに江戸へ下り、慶喜将軍後見職とし、春嶽を大老とすることを要求した。文久2年7月9日(1862年8月4日)、春嶽は新設の政事総裁職に就任し、慶喜とともに京都守護職の設置、陸奥会津藩主・松平容保守護職就任、将軍・徳川家茂の上洛など公武合体政策を推進する(文久の改革)。春嶽は熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え、藩政改革や幕政改革にあたって彼の意見を重視した。

政事総裁職 - Wikipedia

文久2年(1862年)、朝廷と薩摩藩は、越前国福井藩松平慶永大老職に、一橋慶喜将軍後見職就任を求めるように幕府に圧力をかける。これに対して幕府は4月25日に慶喜・慶永ら旧一橋派諸侯の赦免を決定し、7月9日に慶永を政事総裁職とした。これは親藩から大老が出された先例が無かったことによるものとされている。


慶永は慶喜らとともに文久の幕政改革を行った。

文久の改革 - Wikipedia

文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)は、文久2年(1862年)に江戸幕府で行われた一連の人事・職制・諸制度の改革を指す。嘉永7年(1854年)の開国以来の混沌とした政治情勢を受けて、半ば非常時の体制へ移行したものであるが、その主導者は幕府自身(幕閣)ではなく、薩摩藩主の父・島津久光および朝廷の公武合体派公卿らの主導で出された勅使による圧力の下、やむを得ず改革を行ったものである。

幕政の改革は、鎖国体制から開国への移行に伴う尊王攘夷運動の激化、将軍継嗣問題を巡る一橋派と南紀派の対立などの政治的混乱の中で、薩摩藩主・島津斉彬や越前藩主松平慶永(春嶽)ら、開明的な大名らの間ではつとに必要性を叫ばれていた。しかし、島津斉彬の急死及び大老井伊直弼による安政の大獄における改革派の弾圧などにより頓挫していた。


兄・斉彬の死後、藩主となった実子の島津茂久(忠義)を補佐する国父(副城公)の立場となった島津久光は、兄の遺志を継ぎ、兄の果たせなかった率兵上京を敢行し、朝廷から勅使を出させることで幕政の改革を推し進めようと図った。文久2年(1862年)3月16日鹿児島を発した久光の軍勢は4月13日に京都へ入る(以後、すべて日付は旧暦による)。久光は藩主の父ではあるが大名になったこともなく、しかも無位無官であり、公式な立場は「島津三郎」であった。このような人物が兵を率いて京都へ入り、幕府に無断で公家と接触するなどという事態は、幕府健在の頃であれば許されざる暴挙であったが、桜田門外の変以来権威の失墜しつつあった幕府体制にそれを阻止する力はなかった。


一方、京都で勢力を高めつつあった尊王攘夷派の志士ら過激な下級武士・浪士は、久光の率兵上京を朝廷主導による武力での尊王攘夷実現・幕府打倒の先兵であると誤解していた。久光の真意は、あくまで幕政の改革・公武一和であったため、これら志士たちとの間に摩擦を生じ、自藩の急進派有馬新七らの粛清を命じた(寺田屋事件、4月23日)。


久光は権大納言近衛忠房議奏中山忠能正親町三条実愛らの公家に工作を働きかけ、建白書を提出した。その内容は、安政の大獄の処分者の赦免および復権、前越前藩主・松平慶永大老就任、一橋慶喜を将軍後見とする、過激派尊攘浪士を厳しく取り締まる、などからなっていた。久光の建白は孝明天皇に受け入れられ、5月9日、勅使として大原重徳を江戸へ派遣することが決定された。勅書は久光の意見が大幅に取り入れられたものとなった。


6月7日、久光ら薩摩兵1000人が随行して大原重徳は江戸へ入り、幕府との交渉を開始する。それまで国政を全面委任されていた幕府に対し、朝廷から改革の指示が下るという前代未聞の事態に幕府内は混乱するが、結局その大部分を受け入れざるを得なかった。

安政の大獄以来、逼塞に追い込まれていた一橋慶喜松平慶永らが表舞台に復帰したことにより、幕府の改革は進むかに見えたが、やがて島津久光との意見の相違が明らかとなり、対立することとなる。なお、島津久光は帰国の最中、生麦事件を起こすこととなった。


改革の必要があったとはいえ、外様大名の父の圧力、およびそれまで政治的実権を有していなかった朝廷の圧力により改革を強要されたことは、幕府の権威に著しいダメージを与えた。それとともに朝廷の権威は相対的に上昇し、幕府は翌年の徳川家茂将軍上洛要求の勅命にも屈することとなる。そして将軍上洛を契機に、幕府の権力も江戸と京都に分裂し、幕府崩壊に至るまで分裂状態は完全に回復されないままとなり、幕府の寿命を縮めることになった。


一方、京都でも久光の行動と寺田屋事件などの影響により、薩摩藩会津藩などを中心とする公武合体(幕政改革)派と、長州藩真木和泉らの志士などを中心とする尊王攘夷派の間で、京都政界の主導権を巡る対立が激しさを増していく。また勅命の成功によって、それまで政治的発言を封じられていた少壮公卿もまた発言力を増大させ、中川宮朝彦親王二条斉敬公武合体派と三条実美姉小路公知はじめとする尊攘派公家が激しく対立する。これらの動きが翌年の八・一八政変、翌々年の禁門の変などにつながっていくことになった。