https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com


「東郷は運のいい男でございますから」


 東郷平八郎連合艦隊司令長官に抜擢(ばってき)する際、ときの海相山本権兵衛明治天皇に、こう説明したと伝えられる(※1)。

 わずか6日間で、主力の戦艦2隻を含む8隻を戦わずして失ってしまったのだ。


 連続する凶報に、海軍上層部が激しく狼狽(ろうばい)したのは言うまでもない。アルゼンチン海軍から購入したばかりの装甲巡洋艦2隻を充当し、何とか決戦力を維持したものの、これ以上の喪失は毛ほども許されなかった。


 このとき、悪夢の連鎖を断ち切ったのは、東郷自身である。連合艦隊の参謀らが食事ものどを通らないほど消沈する中、全責任を負うべき東郷のみは、いささかも動揺の色をみせなかった。


 沈没した初瀬、八島の両艦長が旗艦三笠に東郷を訪れ、号泣して謝罪したとき、東郷は静かに言った。


「御苦労だったね」


 戦前の海軍内部に精通し、大海軍記者と呼ばれた伊藤正徳(※3)が、当時の東郷をこう書く。


 「少しも取り乱さず、というような叙述では、とうていその姿を描くことはできない。あたかも、悲しみの作用をつかさどる神経を手術摘出してしまった人間のように、悲しみを示さなかった。(中略)日本海軍はよい司令官を持ったものである」


 将器は、逆境においてこそ発揮される。このとき東郷が動揺の色をみせれば、それは連合艦隊の全艦船に伝染し、全将兵を萎縮させただろう。その結果、新たな失策を生み出しかねなかった。

 主力艦の喪失は、図らずも膠着(こうちゃく)した戦局を変えた。ロシアの旅順艦隊が6月23日、日本側の戦力低下に乗じて出港してきたのだ。もっとも司令長官のヴィトゲフトは、連合艦隊の闘志に微塵も揺らぎのないのをみて、一戦も交えず旅順港に逃げ戻った。この弱腰に極東ロシア軍の総指揮官アレクセーエフは憤慨し、皇帝ニコライ2世の勅命を取り付けて再度の出港を厳命する。


 8月10日、今度こそ旅順艦隊は、不退転の決意で旅順港を出港した。


 待ち構える連合艦隊にとって、このチャンスを逃すわけにはいかない。東郷の運が本物かどうか、いよいよ試されるときが来たのだ−−。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169944