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だいすき 團伊玖磨氏について

海外で生活していると、ものすごく日本の活字に飢えます。私はそのほとんどの糧として池波正太郎先生の「剣客商売」とこの「パイプのけむり」をそれこそ何百回と読み返しておりました。

世代的に戦争を兵隊として経験されている大正生まれの方たちから、物心ついてから経験した昭和一桁生まれまでのかたたちの、身の回りの始末のつけ方や、仕事の内容とそのクオリティの高さ、一個人としてのプライドの高さなどは本当に素晴らしいと思います。尊敬します。


團先生が41歳に始まり、75歳で終わったこの随筆も、一貫してクリアな着眼点と体制に迎合しない批判精神、膨大な知識とユーモアに満ち溢れています。

團 伊玖磨

東京都文京区大塚5丁目40−1 護国寺真言宗

 昭和39年に『アサヒグラフ』に連載を始めた随筆『パイプのけむり』は、平成12年に同誌が休刊するまで書き継がれたが、翌年に團伊玖磨自身も燃え尽きたのであった。

『続 護国寺数寄者達の墓所から浅草山谷堀2日目』東京の旅行記・ブログ by ジバゴさん【フォートラベル】

こちらが本日のテーマ、團琢磨家の墓所。 
益田孝(鈍翁)の後継者で三井合名の理事長であった。近代の数寄者の一人で横濱の原三溪のライバルだった。
自宅宅地が6497坪で東京ドームの約半分(45%)自宅からJR千駄ヶ谷駅と原宿のホームが見えたそうな。 自分は知らないタレントだが團遥香の高祖父。

第12回 團琢磨|コラム「三井を読む」|三井広報委員会

團琢磨は安政5年(1858)、300石取りの福岡藩士・神尾宅之丞の4男(一説には3男)に生まれ、幼名を駒吉といった。安政5年は井伊直弼大老となり、日米修好通商条約が結ばれた年である。その駒吉は12歳で福岡藩勘定奉行を務めた團尚静(なおきよ)の養子となり、以後團琢磨を名乗った。

14歳になると、福岡藩主であった黒田長友が岩倉使節団の一員として海外視察をすることになり、その随行員として明治5年(1872)に渡米する。

当時の三井の大番頭益田孝は、「團琢磨を含めての三池鉱山の買収である」と言い、團を三池炭鉱社事務長に任命したのである。明治21年(1888)、こうして工部省の團は三井の團琢磨となった。

また、当時の日本の炭鉱は囚人を鉱夫にしていたが、團はこれに異を唱えた。囚人を牛馬のように使えば賃金は安く上がるが、いつまでたっても進歩も向上もない。むしろ一般市民に正当な賃金を支払って雇用するほうが能率的であるというのが團の主張であった。こうした考え方を受け入れない上層部に対しては、自らのクビをかけて交渉に当たり、三池炭鉱の近代化を進めていった。

「石炭が尽きても地元の人が生活できるような置き土産が必要。筑港をすればいくらか100年の基礎になる」と團は語っている。事実、明治41年(1908)に完成した三池港は、三池炭鉱がその役割を終えた100年後の今も、当時の姿のまま地元の産業と流通を支え続けている。

しかし、日本経済は昭和のはじめに世界恐慌の影響を受け、揺れ動いていた。特に三井は恐慌時に大量のドル買いを行い、私利私欲に走っているとみなされ、マスコミからの激しい批判に晒されていた。昭和7年(1932)になると、そうした空気は社会に色濃く充満。過激な思想集団が跋扈(ばっこ)し、まず2月に前蔵相の井上準之助血盟団員の凶弾に倒れた。そして次が團琢磨であった。

続・安政生まれの団 琢磨の生涯と中国では出せない名前。 : 平太郎独白録 親愛なるアッティクスへ

伊玖磨氏は、晩年、往事を振り返って、「昭和恐慌の不安が子供ながらにも伝わり、軍国主義の臭いが強くなっていく象徴が、祖父の"理由の分からない死″だった。音楽が楽しいからではなく、祖父が百年先を見据えて三池港を築港し、近代鉱山学を樹立したように、日本人の心に埋まり開発されていない音楽を見つけたかった。」と述べておられたそうです。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180801#1533120226(1人ひとりが自らの可能性を主体的・自発的に開発することこそ、人間にとっての自己実現である。)

news every.-「ミンナが、生きやすく」-

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團伊玖磨 - Wikipedia

7歳となった1931年(昭和6年)、青山師範学校附属小学校に入学し、ピアノを学び始めた。翌年3月、祖父・團琢磨が暗殺された(血盟団事件)ことで、幼心に、物質的な栄達への疑問を抱くようになり、後に芸術を志す動機のひとつとなった。当時、團という一字姓のため、しばしば「朝鮮人」「シナ人」と怒鳴られたという(事実、700年前の祖先の團将監は宋人だったと伝えられる)。

たびたび訪中したが、團という字に中国語で卑猥な意味があるため、北京では「檀か段に直してください。團では困る」「あなたの名刺は、女の人には見せられません」と言われた。

エッセイ「パイプのけむり」は1964年に『アサヒグラフ』で連載を始め、2000年に同誌が休刊するまで連載を続けていた。最終回では「自分が死ぬのが先か雑誌が休刊するのが先か」どっちなのだろうと予想していたと書いている。結局、雑誌休刊の翌年死去する。

最初の妻桑原瑛子(ソプラノ歌手)との間に生まれた長男團名保紀は西洋美術史家で群馬大学教授。二番目の妻藤枝和子(ピアニスト)との間に生まれた二男團紀彦は建築家。

團伊玖磨の妻・瑛子さんと和子さん - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

團氏(福岡藩士) − Reichsarchiv 〜世界帝王事典〜

1993- 遥香

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