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「裁判では原告に協力する形でしばしば登場するこの男性(青山氏)は、自身と北島との関係を、赤裸々に明かしています。彼が法廷に提出した陳述書などでは、北島の交渉役を引き受けた経緯について“1964年夏、岸和田市で行われた北島三郎ショーの後、市内の料亭で行われた打ち上げの席で、親分衆の見届ける中、北島と兄弟分の盃を正式に交わした”“この兄弟分の契りをテーマにして出来上がったのが星野哲郎作詞の『兄弟仁義』だ”などと主張しているのです」(同)


 青山氏によれば、北島と交わした“契り”とは、


〈終生何があっても、お互いに助け合い、心労の限りを尽くし合おう〉(陳述書・以下同)


 というもので、具体的に、


〈北島の芸能活動を裏面から補助し(略)ヤクザを含めて北島の活動を妨げる者が現れた場合には、命懸けでこれを裏面から徹底的に排除する〉


〈兄弟分となったことが世間に知られると北島の芸能活動に支障がでるので、私はあくまで黒子に徹する〉


〈その代わり、北島は、私の生涯を通じて、生活の面倒を見るものとし、私のなす経済的活動については、必要に応じて協力する〉


 などと綴られている。実際に、北島のピンチを助けたエピソードとしては、


〈知り合った当時、北島は新栄プロダクションに所属していましたが(略)独立したいと頼んだところ社長が激怒し、北島のマネージャーでもある実弟を監禁した事件がおきたのです。この事件で、私は命懸けで実弟を開(ママ)放しました〉


 その反対に、


「北島が彼を助けた事例として、67年に逮捕され、名古屋刑務所に服役して仮出所した74年から1年ほど、当時中野にあった北島の自宅に住まわせてもらったなどと明かしているのです」(同)


 そうした濃密な関係があったからこそ、今般の金銭トラブルにおいても、身を挺して北島を守ったというのだ。実際に彼の「上申書」には、こう記されている。


〈(北島が)「同じ山口組の兄弟が、何としても抑えてくれ。スキャンダルは致命傷になるので、それだけは、回避するように頼んでおく」と私の手を取って懇願したのです〉