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第34回「将軍慶喜」|NHK大河ドラマ『西郷どん』

徳川慶喜 - Wikipedia

慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大坂城薨去する。慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功する。


家茂の後継として、老中の板倉勝静小笠原長行は江戸の異論を抑えて慶喜を次期将軍に推した。慶喜はこれを固辞し、8月20日に徳川宗家は相続したものの将軍職就任は拒み続け、12月5日に将軍宣下を受けようやく将軍に就任した。これは言わば恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが実情である。 この頃の慶喜ははっきりと開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった。


慶喜政権は会津藩桑名藩の支持のもと、朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上洛させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。また、慶喜は将軍就任に前後して上級公家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に関白・摂政を兼任させる構想が繰り返し浮上した。 一方、これまで政治的には長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣とも連携し、慶応の改革を推進した。


慶喜はフランス公使・レオン・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。老中の月番制を廃止し、陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。また、実弟・昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだ。

四侯会議 - Wikipedia

第二次長州征討の最中、14代将軍徳川家茂大坂城で急死した後、後継者と見なされた徳川慶喜は徳川宗家の継承のみ承諾したが、将軍襲職は固辞した。周囲から推され、それを断り切れずに就任する形式をとろうとしたためと言われる。5ヶ月後の12月5日、ようやく慶喜征夷大将軍に就任する。しかし、同月に孝明天皇が突然崩御慶喜は治世序盤にして大きな後ろ盾を失うこととなった。


新将軍徳川慶喜にとっての大きな課題は、前将軍急死に伴って停戦したとはいえ未だ表向きは朝敵であった長州藩への処分問題と、諸外国と約束したものの孝明天皇の強い反対によって実現しなかった兵庫港(神戸)の開港問題であった。


慶喜は、第二次長州征伐に失敗するなど、権威が失墜していた幕府を、幕府を中心とした朝廷との公武合体によって権威を回復し、政治の主導権を握りたいと考えていた。

薩摩藩の西郷・大久保らは四侯会議の失敗を受け、戦略の変更を余儀なくされる。慶応3年(1867)5月25日、薩摩藩邸で重臣会議が開かれ、倒幕に舵を切ることが確認された。すなわち、もはや列侯会議で幕府(および慶喜)を牽制するのは不可能であるとして、斉彬以来維持してきた公議路線を放棄し、武力倒幕路線を指向することとなる。軍役奉行伊地知正治はこの倒幕の方針を久光に伝え、これに久光も半ば同意した。(久光は武力による倒幕は諸外国の介入を招く恐れがあると懸念をもっていた) 薩摩藩は秘かに岩倉具視と結び、中山忠能正親町三条実愛・中御門経之らの協力を得て倒幕の密勅降命に向け、工作することとなる。


一方四侯会議の途中から欠席するなど薩摩と距離を置き始めた山内容堂は、むしろこの後徳川家擁護の姿勢へ傾斜を深めていく。同年6月坂本龍馬から大政奉還を含む船中八策を聞いた土佐藩後藤象二郎は、容堂にこれを進言する。徳川家存続の妙策と考えた容堂は、慶喜大政奉還を建白した。その結果、薩摩側の倒幕の密勅工作の機先を制し、10月14日大政奉還が実行されることとなる。

第二次長州征討 - Wikipedia

戦況不利の最中の7月20日に家茂が死去(後述)、徳川将軍家を継いだ徳川慶喜は大討込と称して、自ら出陣して巻き返すことを宣言したが、小倉陥落の報に衝撃を受けてこれを中止し、家茂の死を公にした上で朝廷に働きかけ、休戦の勅命を発してもらう。また慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣井上馨が9月2日に宮島で会談した結果、停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息した。なお、慶喜は停戦の直後から、フランスの支援を受けて旧式化が明らかとなった幕府陸軍の軍制改革に着手している(幕府陸軍#慶応の軍制改革を参照)。


朝廷の停戦の勅命と幕府・長州間の停戦合意成立にもかかわらず、小倉方面では長州藩小倉藩領への侵攻を緩めず、戦闘は終息しなかった。この長州藩の違約に対し、幕府には停戦の履行を迫る力はなく、小倉藩は独自に長州藩への抵抗・反撃を強力に展開した。10月に入り、長州藩は停戦の成立した他戦線の兵力を小倉方面に集中して攻勢を強め、企救郡南部の小倉藩の防衛拠点の多くが陥落するに及んで小倉・長州両藩間の停戦交渉が始められ、慶応3年(1867年)1月にようやく両藩の和約が成立している。この和約の条件により、小倉藩領のうち企救郡長州藩の預りとされ、明治2年(1869年)7月に企救郡が日田県の管轄に移されるまでこの状態が続くこととなった。


第二次征討の失敗によって、幕府の武力が張子の虎であることが知れわたると同時に、長州藩薩摩藩への干渉能力がほぼ無くなる結果を招いた。そのため、この敗戦が江戸幕府滅亡をほぼ決定付けたとする資料も見られる。


 話題はNHK大河ドラマ西郷どん」にも及び、島津さんは「(島津)久光が悪役で描かれるのは仕方ない」としながらも、「自ら『国父(藩主の父)だ』などというのはみっともない」と指摘。