https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

第二十六回「西郷、京へ」|NHK大河ドラマ『西郷どん』

参預会議 - Wikipedia

朝廷の任命による数人の有力な大名経験者[1]から構成された合議制会議、およびその制度である。当時流行した公武合体論および公議政体論の一つの帰結ではあったが、参預諸侯間の意見の不一致から、わずか数ヶ月で崩壊した。

幕末の政局において、大老井伊直弼彦根藩主)による強引な日米修好通商条約締結への反撥から尊王攘夷運動が高まり、井伊は安政の大獄でこれらを弾圧するが、逆に桜田門外の変で暗殺され、江戸幕府の権威は急速に低下しつつあった。そこで幕府は朝廷と結ぶことで権威の恢復を図ろうとする。


従来、朝廷は政治との関わりを規制されていたが、江戸時代後期には国学・水戸学の隆盛、大政委任論などの登場により次第に潜在的地位を高め、さらに日米修好通商条約をめぐる論争・政治工作の中で、老中堀田正睦佐倉藩主)が反対勢力を抑えるため孝明天皇の勅許を得ようとしたことから、天皇および朝廷の権威は急速に上昇していた。


こうした中、朝廷と結束することで幕府の権威低下を防ごうとする公武合体論が浮上する。老中久世広周関宿藩主)・安藤信正磐城平藩主)らは将軍徳川家茂正室孝明天皇の妹和宮親子内親王を降嫁させる。


いっぽう、幕府の権威低下にともない、これまで幕政から遠ざけられていた親藩外様大名の政治力が相対的に高まり、中でも先進的な思想を持ち輿望を担う有力諸侯を国政に参画させて国難を乗り切るべきであるという公議政体論が擡頭した。


文久2年(1862年)夏、薩摩藩島津忠義の実父島津久光が兵を率いて上京し、朝廷から幕府へ勅使大原重徳を下させて幕政改革を迫る(文久の改革)。これにより、安政の大獄以来失脚していた松平慶永(前越前藩主)が政事総裁職徳川慶喜一橋徳川家当主。のちの15代将軍)が将軍後見職として復帰した。久光の意志は公武合体と幕府の体制変革であったが、久光が江戸を去るに際し、生麦事件を起こしたため、かえって尊王攘夷派を勢いづかせることになる。

文久3年(1863年)に入ると、政局は尊王攘夷激派の長州藩とそれを後ろ盾にした三条実美姉小路公知ら過激公卿らが朝政を主導する事態となっており、熱心な攘夷主義者ではあるものの、幕府との協調を目指す孝明天皇の意に甚だ反していた。天皇の意向を受けた中川宮朝彦親王は、京都守護職松平容保率いる会津藩と、薩摩藩に命じて、長州藩および尊攘派公卿の排除を図った(八月十八日の政変)。長州藩勢力は京都から追放され、尊攘派公卿の三条ら7人もそれに従った(七卿落ち)。こうして尊攘派の一掃に成功した朝廷だったが、中川宮や関白鷹司輔煕長州藩に宥和的であった)らには政局を主導する能力がなく、朝廷は甚だ人材に欠けていた。


そこで朝廷は有志大名に期待し、薩摩藩主の父島津久光、越前藩前藩主松平慶永宇和島藩前藩主伊達宗城土佐藩前藩主山内豊信一橋徳川家当主徳川慶喜らに上洛を命じ、混迷を極める政局の安定を図るため、朝政改革も含めた今後の方策を探った。これを受けて10月3日に島津久光、10月18日に松平慶永、11月3日に伊達宗城、11月26日に徳川慶喜が入京。山内豊信がやや遅れて12月28日に入京した。この間、孝明天皇から極秘の宸翰を受けた島津久光が積極的な動きを見せる。孝明天皇は朝政改革で尊王攘夷過激派を一掃した後は従前のごとく幕府へ大政を委任し、公武合体して事に当たる方針を示したが、薩摩藩はむしろ将軍を上京させた上で有力諸侯の合議による諮問機関を設け、公議政体を作ることこそ公武合体であると考え、諸侯の協力を求めた。12月5日薩摩藩は、賢明なる諸侯を朝廷に召して議奏とすべきであると提案。慶喜の宿所に集った松平慶永伊達宗城松平容保らもこれに賛同し、決定事項となった[2]。これが参預会議の基本方針となる。


さらに、久光の奏上により、12月23日鷹司輔煕が関白を罷免され、親幕府的な二条斉敬が就任した。

こうして先の薩摩藩上表に基づき同大晦日に、島津久光を除く上記4人と松平容保が「朝廷参預」に任命される(久光のみ翌文久4年(1864年)正月13日に任命)。この参預の職務は二条城を会議所とし、二日おきに参内して天皇の簾前にて朝議に参加するというものであった。


正月15日、将軍徳川家茂が再上洛。孝明天皇は家茂に対し、醜夷征服の策略を議すこと、参預諸侯の政治参加、公武合体方針の明確化などを求めた宸翰を下した。これを受け、2月16日参預諸侯に老中部屋への出入りが許され、正式に幕政参加が命じられた。

徳川慶喜一橋徳川家当主、将軍後見職
松平慶永(越前藩前藩主、前政事総裁職
山内豊信土佐藩前藩主)
伊達宗城宇和島藩前藩主)
松平容保会津藩主、京都守護職
島津久光薩摩藩島津茂久の父)

長岡護美(熊本藩執政。藩主斉護の子)
黒田慶賛(福岡藩世子)

この他、徳川慶勝尾張藩元藩主)が参預に命じられたが、辞退している。

国政の合議機関として設けられた参預会議における当面の議題は、当時懸案となっていた長州藩の処分と攘夷(横浜鎖港)問題であった。