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権勢並ぶものがない呂不韋は、政の生母である太后(趙姫)と密通していた。

これは元々好色で、荘襄王の死後に男なしでは居られなくなった太后からの誘いであった。呂不韋としても、元愛人であった太后への未練を断ち切れず、関係を戻したのである。しかし、政が成長するにつれて、今や国母となった太后との不義密通を続けるのはいくらなんでも危ないと感じた呂不韋は、嫪毐(ろうあい)という巨根の男を太后に紹介しただけでなく、男性の入れぬ後宮へ、宦官に偽装して送り込んだ。太后は嫪毐の巨根に夢中になり、息子を2人生んだ。

その後の嫪毐は、太后の寵愛を背景に長信侯に封じられて権勢を得たものの、所詮巨根だけで成り上がった男でしかなかった。やがて太后との密通が発覚すると嫪毐は政に対し謀反を起こし、窮地を乗り切ろうとする。

だが、嫪毐の反乱はすぐに鎮圧され、嫪毐は車裂きの刑で誅殺された。また、嫪毐の2人の息子も処刑され、太后は幽閉された。この一件は呂不韋へも波及。連座制に則り、処刑されるところだったが、今までの功績を重んじた政によって、丞相職の罷免と蟄居に減刑された。

しかし、呂不韋は蟄居後であっても客との交流を止めず、諸国での名声も高かった。そのため、政は呂不韋が客や諸国と謀って反乱を起こすのではないかと危惧し、紀元前235年に政からの詰問状を受けた。

秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。

そして、呂不韋は蜀地域への流刑を追加されたことで、自らの末路に絶望し、鴆酒を仰いで自殺した。

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