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中華圏最後の皇帝であり、その生涯を題材にした映画から『ラストエンペラー』として知られる。幼帝として2歳で清朝皇帝に即位し、元号から宣統帝と称される。辛亥革命後は遜清皇室小朝廷として大清皇帝の尊号で保護されるも張勲復辟事件で復位して12日間で再び退位。

その後は清室優待条件により紫禁城に住むことを許されるものの、北京政変で紫禁城を追われてしまう。さらに当初庇護を受けようとしたイギリスやオランダ公館に庇護を拒否されてしまい、天津の日本租界で日本公館の庇護を受けた。

これ以降の縁で、満州事変以降関東軍の主導で建国された満洲国の執政に就任、満州国大元帥満州国協和会名誉総裁などを兼任し、帝政移行後の大満洲帝国で皇帝に即位した。満州国皇帝としては元号から康徳帝と称されることもある。太平洋戦争における日本の敗戦と、ソビエト連邦軍の侵略を受けた満州帝国の崩壊とともに退位した。

ソ連赤軍の捕虜となって中華人民共和国に引き渡され、1959年の撫順戦犯管理所からの釈放後の1960年には中国共産党の方針により北京植物園に勤務したが、すぐに政協文史研究委員会専門委員に就任した。さらに晩年の1964年には、満州族の代表として政協全国委員に選出され、北京で生涯を終えた。

1900年に発生した義和団の乱を乗り越え、当時依然として強い権力を持っていた西太后が1908年に光緒帝の後継者として溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代・宣統帝となった。即位式紫禁城太和殿で行われ、新しい皇帝の即位は世界各国で大きく報じられた。その後宣統帝は多くの宦官や女官らとともに紫禁城で暮らすこととなる。

西太后宣統帝を後継者とするとともに、宣統帝の父・醇親王を監国摂政王に任命して政治の実権を委ね、同年11月14日に光緒帝が崩御した翌日に74歳で崩御した。

光緒帝の崩御に関して、当初から毒殺されたのではないかという説があり、2007年に行われた調査では、光緒帝の遺髪から大量の砒素が検出されたため、毒殺の可能性がより濃厚になった。

誰が光緒帝を暗殺したかについては、西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、「西太后が光緒帝を自分よりも長生きさせないために暗殺した」とする説がある一方で、「戊戌変法で光緒帝を裏切っている袁世凱が、光緒帝が復権して自身に報復するのを恐れて暗殺した」という説もあり、溥儀は自伝『わが半生』では「袁世凱による殺害」という見方を示している。しかしいずれも確たる証拠がなく、誰が光緒帝を暗殺したかは不明である。

ジョンストンより日々教育をうける中で、自動車や洋服、自転車、電話、英語雑誌などのヨーロッパの最新の輸入品を与えられ、その後「洋服には似合わない」との理由で辮髪を切るなど、紫禁城内で生活をしながらも、ジョンストンがもたらした英国風の生活様式と風俗、思想の影響を受けることとなる一方、溥儀の西洋化に対し敵意を持った一部の宦官や女官たちとそれらと仲の良い新聞などから、ジョンストンは攻撃を受けることとなる。

この頃溥儀はキリスト教徒(プロテスタント)のジョンストンより、「ヘンリー(Henry)」という名を与えられ、その後もこの名前を好んで使用した。溥儀はイギリス風の名を持ったものの、同様の多くの中国人と同じくキリスト教徒にはならなかった上、この名前は欧米人に対してのみ使用し、決して公式の場で使用したり、中国人に対しては使用しなかった。

溥儀自身は「時代遅れの慣習である」として淑妃を迎えることに反対したものの、側近らの勧めで1人だけ迎えることに同意した。また、結婚後には中国の皇帝として初めてイギリスや日本、フランスなどの外交官を中心とした外国人を招待した「歓迎会」を催した。

結婚後に婉容の家庭教師として北京生まれのアメリカ人イザベル・イングラム(en:Isabel Ingram)が就任し、婉容にはイングラムより「エリザベス(Elizabeth)」の英名が与えられた。この頃自分用の自動車を入手した他、婉容とともにイギリスやアメリカへの留学を画策するものの、実現することはなかった。

この頃、溥儀は中華民国内の混沌とした政情の中にあったものの、正妻とジョンストンらの側近、宦官らとともに紫禁城の中で平穏な日々を過ごしていたが、清国の大阪総領事や総理衙門章京、湖南布政使等を歴任した後の1924年に総理内務府大臣(教育掛)となった鄭孝胥の薦めを受けて、退位を受けて予算が減らされた紫禁城内の経費削減と近代化を推し進めた。

同年6月には、美術品が多く置かれている紫禁城内の「建福院」の目録一覧を作成し、これまで頻繁に行われていた宦官による美術品の横領を一掃することを目論んだものの、目録作成直後の6月27日未明に一部の宦官らが「建福院」に放火し、横領の証拠隠滅を図った。

これに激怒した溥儀は、中華民国政府の力を借りて約1,200名いた宦官のほとんどを一斉解雇し、日頃の宦官による横暴に対して怒りを感じていた国民やマスコミから称賛をうけた。その後も長年紫禁城に居ついていた女官を追放するなど、紫禁城内の経費削減と近代化を推し進め議論を呼んだ。

1924年10月には馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター(北京政変)が発生し、直隷派の曹錕が監禁され馮玉祥と孫岳が北京を支配することとなった。さらに馮玉祥と孫岳は政変後に、帝号を廃し清室優待条件の一方的な清算を通達し、紫禁城に軍隊を送り溥儀とその側近らを紫禁城から強制的に退去させた。

頼りにしていたイギリスとオランダから受け入れを拒否されたジョンストンは、関東大震災義捐金などを通じて溥儀と顔見知りであった芳澤謙吉特命全権公使に受け入れを打診した。

これに対して芳澤公使は最終的に受け入れを表明し、溥儀ら一行は11月29日に北京の日本公使館に入り、日本政府による庇護を受けることになった。翌1925年2月には鄭孝胥と日本の支那駐屯軍、駐天津大日本帝国総領事館の仲介で、溥儀一行の身柄の受け入れを表明した日本政府の勧めにより天津市の日本租界の張園に移ることとなる。

このような政治的混乱のなかで、1928年に国民党の軍閥孫殿英の軍隊が河北省の清東陵を略奪するという事件が発生した(東陵事件)。なかでも乾隆帝の裕陵と西太后の定東陵は墓室を暴かれて、遺体から宝飾品のみならず衣服もはぎとられるなど、徹底的な略奪を受けた。

「この恨みに報いなかったなら、私は愛新覚羅の子孫ではない」と怒った溥儀は国民政府に抗議したが、孫殿英は国民党の高官に賄賂を贈っていたためになんら処罰されることはなく、溥儀を大いに憤慨させた。東陵事件は溥儀にとって紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な事件であり、これによって清朝復辟の念を一層強くしたという。

「執政」就任の2年後、1934年3月1日にようやく溥儀は満洲国皇帝の座に就き、康徳帝となる。

しかし、満州事変以降日本政府や大本営の意向を無視して動くことの多かった関東軍が、現地人はおろか日本政府の意思をも無視し過度に介入する形での満洲国の運営、さらに関東軍主導で実権を伴わない形での溥儀の「皇帝就任」に対しては、日本国内の有識者、特にアジア諸国の欧米の植民地支配からの自主独立を目指すアジア主義者や右翼からの反発が強かった。

一例として、当時の日本の政界に強い影響力を持っていたアジア主義者の巨頭で玄洋社の総帥、かつ亡命中に支援を行うなど蔣介石との関係も深かった頭山満は、満州事変から満洲国の建国に至る関東軍の暴走と、それに対する日本政府のあいまいな対応に強い憂慮と怒りを示していた。

頭山は、1935年に溥儀が来日した際にも日満政府から歓迎式典や公式晩さん会への出席の招待を受けたものの、満州国建国に至るまでの関東軍の暴走を止められないままでいた岡田内閣と大本営、そして関東軍への抗議の意味を込めて「気が進まない」との理由でこれを断わっている。

溥儀やその家族、満洲国の閣僚や関東軍の上層部たちは、ソ連軍の進撃が進むと8月10日に首都の新京の放棄を決定し、8月13日に日本領の朝鮮との国境に程近い通化省臨江県の大栗子に、南満州鉄道の特別列車で避難していた。

しかし、事実上1国で連合国と戦っていた日本が8月15日に連合国に対して降伏したことにより、その2日後の8月17日に国務院が満洲国の解体を決定、8月18日未明に大栗子満洲国の消滅を自ら宣言するとともに、満洲国皇帝を退位した。

満洲帝国皇帝を退位した溥儀は、日本政府より日本への亡命を打診されたこともあり、日本軍との連絡の元で8月19日朝に満洲軍の輸送機で大栗子から奉天へ向かった。奉天の飛行場では、岐阜基地から京城平壌経由で送られてきた日本陸軍の救援機(四式重爆撃機)が手配されていたため、これを奉天で待つ予定であった。

しかし同日昼に、日本陸軍の救援機の到着に先立ち奉天に進軍して来たソ連空挺部隊に捕らえられた。その後、溥儀や溥傑、毓嶦及び吉岡ら満洲帝国宮中一行は直ちにソ連領内に移送され、さらにソ連極東部のチタとハバロフスク強制収容所に収監された。

婉容や浩は溥儀や溥傑の航空機による日本への亡命に同行できず、地上での移動を余儀なくされた末に、わずかな親族や従者と共に満洲国内に取り残され、ソ連モンゴル連合軍とともに満州に侵攻して来た八路軍に捕らえられた。

さらに大戦終結後まもなく国共内戦がはじまり、八路軍中国国民党軍に追われる中で各地を転々連れまわされ、1946年2月には、通化通化事件に巻き込まれることとなった。

逃亡中にアヘン中毒の禁断症状が出た婉容は、その後嵯峨浩などの親族や従者と引き離され、吉林省延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のために、誰にも看取られることも無いままに孤独死したといわれる。死後どこに埋葬されたかは現在でも分かっていない。

溥儀がソ連強制収容所に収監された翌年の1946年に開廷した極東国際軍事裁判東京裁判)には、証人として連合国側から指名され、ソ連の監視下において空路東京へ護送され、同年8月16日よりソ連側の証人としてソ連に有利な証言を強要された。

その後の1950年には、ソ連と同じく連合国の1国であり、国連の常任理事国でもあった中華民国ではなく、国共内戦ソ連の援助を受けて勝利した中国共産党によって前年に中国大陸に建国された中華人民共和国へ身柄を移された。

その後、公式な裁判で裁かれる事すらないままに、第二次世界大戦当時には存在していなかった同国の「戦犯」として、撫順の政治犯収容所(撫順戦犯管理所)に弟の溥傑や同じくソ連軍にとらえられた満洲国の閣僚や軍の上層部61人、さらに1,000人を超える日本軍の捕虜らとともに収監され、「再教育」を受けることとなった。その後同年10月にハルビン政治犯収容所に移動させられ、1954年には再び撫順の政治犯収容所に移動させられた。

1959年12月4日に、当時の国家主席劉少奇の出した戦争犯罪人に対する特赦令を受け、12月9日に模範囚として特赦された。溥儀とともに収容所に収監されていた溥傑も1960年11月20日に釈放され、浩との再会を果たしている。

釈放後の1960年1月26日に、溥儀が政治犯収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を図っていた周恩来首相と中南海で会談し、釈放後の将来について話し合った結果、一般市民の生活に慣れることを目的に、周恩来の薦めで中国科学院が運営する北京植物園での庭師としての勤務を行うこととなった。

北京植物園での勤務は名目的なもので短期間で終わり、その後は全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり、主に文史資料研究を行う。

その後1962年には、看護婦をしていた一般人の李淑賢と結婚し李淑賢は溥儀の5人目の妻となった。溥儀にとって最後の結婚となったが、夫婦ともども高齢であることもあり子を授かることはなかった。

溥儀は中華人民共和国文化大革命の嵐が吹き荒れる中で癌(腎臓がん)を患った。政協全国委員という要職ではあるが、清朝皇帝という「反革命的」な出自の溥儀の治療を行うことで紅衛兵に攻撃されることを恐れた多くの病院から入院を拒否されたが、政協主席も務める周恩来の手配で、北京市内の病院に入院することになった。

しかし溥儀が治療を受けていることを知った紅衛兵が、入院先の病院に押しかけて騒いだため、医師たちは溥儀に治療を施さず放置した。その報告を受けて立腹した周恩来は、直接院長に電話して溥儀の治療を行わせたが、既に末期状態だった溥儀は治療のかいもなく1967年10月17日に死去した。溥儀が死の間際に所望したのは晩年の好物だった日清食品チキンラーメンだった。後に日清食品の創業者である安藤百福は2000年に訪中した際に紫禁城玉座チキンラーメンを供えている。

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天津のミッション・スクールで西洋風の教育を受けて育つ。婉容が17歳の時、溥儀の正妻(皇后)として迎えられた。同時期に側室(淑妃(中国語版))として文繡も溥儀の妻となる。当時、溥儀は紫禁城で西洋風の教育を受けており、スコットランド人家庭教師レジナルド・ジョンストンにより「ヘンリー」の英語名を持った。婉容にも中国生まれの米国人イザベル・イングラム(英語版、中国語版)が家庭教師となり、「エリザベス」の英語名を与えられた。

婉容は溥儀、文繡と多くの宦官や従者とともに紫禁城内で平穏な生活を送る。もっとも、溥儀との面会には互いの従者を通じて相手方の承諾が必要であるうえ、幼少期より大清皇帝の座にあり、「妻も妾も君主の奴隷」と見做していた彼は、婉容に正室としての愛情を持って接することも同衾することもほとんどなく、また広い城内で淑妃である文繡と顔を合わせることもほとんどなかった。

1924年、北京政変により清室優待条件が破棄されると夫婦は紫禁城を追放され、各国からの保護も拒否される。その中で日本のみが溥儀らへの支援を表明し、天津の日本租界の張園へ、1929年にはさらに静園へ移住する。中国国内における内戦(国共内戦)の影響は天津には大きく及ばず、また紫禁城を離れたことで因習に囚われることなく、日本の関与が深まり外出に監視がつくようになるまで、夫妻は現代風で自由な生活を送った。

しかし、文繡が張園を脱出し離婚したのを機に、溥儀との夫婦仲は悪化してゆく。溥儀は文繡に対する愛情はなかったが、これは婉容が彼女を追い出した結果の離婚により、皇帝としての体面を貶められたと考えたためである。さらに溥儀は、紫禁城居住時から何度か試み、婉容の望みでもあった海外脱出を諦め、復辟に執心するようになる。そんな夫への鬱屈した気分を晴らそうとした婉容は阿片に手を出し、やがて中毒症状を示すようになっていく。

満州事変勃発後の1931年暮れ、溥儀が日本陸軍から「大清帝国の復興である新国家(満州国)」の皇帝となるよう要請を受け、これを受諾、天津を脱出して満州へ移住する。静園から溥儀が去ったことを知った婉容は溥儀から満州に来るよう求められるも、皇后の身分にも夫の元へも戻る意思がないと断った。しかし、関東軍の命を受けた金璧輝(川島芳子)が「皇帝が大連で亡くなったため葬儀に出席してもらいたい」と嘘をつき、満州に連れ出した。

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 溥儀の初めての性体験は、14歳のときで相手は若い宦官だった。宦官が奉仕し溥儀は感極まり、精を放った。その後も1945年の満洲国崩壊まで同性愛者だった、としている。

 別の宦官の伝記には、多くの女官らによってさまざまな性の悪戯を教えられた、とある。加藤さんは「正常と異常の判断がつく以前に、女官や宦官による遊蕩と欲望の被害者となったのは、宮廷内にはびこった性的堕落の因習によるところが大きい。それゆえに自らを貶めるような異常性愛に奔ったのは間違いない」と書いている。

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10月に孫文の影響を受けた革命軍が武昌と漢陽を武力制圧し、黎元洪を都督として中華民国軍政府が成立を宣言した。清国は革命軍の制圧に失敗し、15省が次々と独立を宣言した。1911年12月29日、上海で孫文中華民国大総統に選出され、1912年2月12日に清最後の皇帝溥儀が退位し、清国は滅亡した。この結果、アジアにおいて史上初の共和制国家である中華民国が誕生した。

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光緒34年(1908年)に光緒帝が崩御、その翌日に西太后も病没して宣統帝が即位、宣統帝の父醇親王載灃が摂政王として政権を担当すると袁世凱の政界での状況は一変する。醇親王は戊戌変法で兄光緒帝を裏切った袁世凱を憎んでおり、宣統元年(1909年)の年初に袁世凱を失脚させた。さらに袁世凱を殺害する計画もあったが、内部情報を得てかろうじて北京を逃れた。全ての職を失った袁世凱は、河南省彰徳(現在の安陽市)近くに居を構え、失意の日々を過ごすこととなる。しかし、一方で彼の部下は多く政権に残っており、また彰徳は交通の要地でもあるため、情報はふんだんに入手していたらしい。

宣統3年(1911年)10月、辛亥革命が勃発。華中・華南では革命派優位で情勢が推移した。朝廷内の満洲貴族らも袁世凱のほかにこれを鎮圧できる人物はいないと判断し、清朝の第2代内閣総理大臣、湖広総督に任命するとともに、反乱軍の鎮圧を命じた。袁世凱は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせつつも自らは動かず、一方で革命派と極秘に連絡を交わした。そして自らの臨時大総統就任の言質を取るや革命派に寝返り、朝廷の要人に政権の交代を促した。こうして宣統4年(1912年)2月12日、宣統帝の上諭が発布されて清国最後の皇帝が退位、清朝は滅亡した。同年2月15日、議場での満場一致により、袁世凱が新生中華民国の臨時大総統に就任した。

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1924年9月、第二次奉直戦争が起き、馮玉祥は「討逆軍」第三軍総司令に任命され、熱河方面の奉天軍を迎え撃つために古北口に進出したが、そこに兵を止め、進軍しなかった。10月23日、馮玉祥は部隊を率いて北京に帰還し、総統府を包囲し、直隷派によって掌握されている北京政府に停戦と呉佩孚の職務の解除を命令するよう迫り、総統の曹錕を監禁し、「国民軍」の成立を宣言した。政変後、馮玉祥は帝号の使用等の清室優待条件を破棄し旧・清朝皇室(愛新覚羅溥儀)を紫禁城から追い出した。

また、孫文の北上を求め、奉天派と協議し段祺瑞を北京に迎え入れ中華民国執政にした。孫文は北京に入った後1925年3月12日に病没した。この頃段祺瑞は善後会議を主宰し続け、会議の後に臨時参政院を成立させ、国会の機能を行使させた。

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その後、辛亥革命後も紫禁城に住んでいた清朝皇帝の愛新覚羅溥儀(在位1908年-1912年)の後見役的立場になっていた醇親王載灃と、西太后の側近であった李鴻章の息子で、清国の欽差全権大臣を務め、駐イギリス特命全権大使でもあった李経方の勧めによって、1919年に溥儀の帝師(家庭教師)に選ばれ、ヨーロッパ人としては初めて紫禁城の内廷に入った。

その後溥儀はジョンストンより日々教育をうける中で、洋服や自転車、電話や雑誌などのヨーロッパの最新の輸入品を与えられ、「洋服には似合わない」との理由で辮髪を切るなど、紫禁城内で生活をしながらも、ジョンストンがもたらしたヨーロッパ(イギリス)風の近代的な生活様式と思想の影響を受けることとなる。

その後溥儀はジョンストンや、清国の大阪総領事や総理衙門章京、湖南布政使等を歴任した後に総理内務府大臣(教育掛)となった鄭孝胥の薦めを受けて、紫禁城内の経費削減と近代化を推し進めるとともに、宦官の汚職紫禁城内の美術品の横領を一掃するために、中華民国政府の力を借りて約1,200名いた宦官のほとんどを一斉解雇し、女官を追放するなどの紫禁城内の近代化を図り議論を呼んだりした。

しかしその後中国の武力統一を図る軍閥同士の戦闘はますます活発化し、1924年10月には馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター(北京政変)が発生し、直隷派の曹錕が監禁され馮玉祥と孫岳が北京を支配することとなった。

さらに馮玉祥と孫岳は政変後に、帝号を廃し清室優待条件の一方的な清算を通達し、紫禁城に軍隊を送り溥儀とジョンストンらを紫禁城から強制的に退去させた。

当初溥儀は醇親王の王宮である北府へ一時的に身を寄せ、その後ジョンストンが総理内務府大臣の鄭孝胥と陳宝琛の意向を受けて上海租界や天津租界内のイギリス公館やオランダ公館に庇護を申し出たものの、ジョンストンの母国であるイギリス公館からは内政干渉となることを恐れ受け入れを拒否された。

頼りにしていたイギリスとオランダから受け入れを拒否されたジョンストンは、かつて関東大震災義捐金などを通じて溥儀と顔見知りであった日本の芳澤謙吉特命全権公使に受け入れを打診した。これに対して芳澤公使は最終的に受け入れを表明し、溥儀ら一行は11月29日に北京の日本公使館に入り、日本政府による庇護を受けることになった。翌1925年2月には鄭孝胥と日本の支那駐屯軍、駐天津日本国総領事館の仲介で、溥儀一行の身柄の受け入れを表明した日本政府の勧めにより天津市の日本租界の張園に移ることとなる。

なおこの事は、1905年の日露戦争の勝利によるロシア権益の移譲以降、満洲への本格進出の機会を狙っていた日本陸軍関東軍)と溥儀がその後緊密な関係を持ち始めるきっかけとなるものの、この頃の日本政府及び日本陸軍の立場は、あくまで第一次世界大戦における同盟国であり、当時も強力な友好国であるイギリス国民であるジョンストンの申し出を受けて、イギリスとオランダが受け入れを拒否した溥儀を一時的に租界内に庇護するだけであり、溥儀との関係を積極的に利用する意思はなかった。

それどころか日本政府は、紫禁城から強制的に退去されたものの当時も中華民国および満洲に強い影響力を持っており、政治的に微妙な立場にいた溥儀を受け入れることが、中華民国に対する内政干渉になりかねないと困惑していた。


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封じられた歴史〜満州国建国の真相〜

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