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(第6刷)P117

比企の局

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寿永2年(1182年)11月、産後の継娘・政子に夫・源頼朝の浮気を伝え、政子が牧の方の兄宗親に命じて頼朝の愛妾・亀の前の屋敷を打ち壊させる騒動を引き起こしている。

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寿永元年(1182年)11月10日、源頼朝の正妻で時政の娘にあたる北条政子の命で、頼朝の愛妾・亀の前が匿われていた伏見広綱邸を破壊した。2日後、頼朝より亀の前が避難していた大多和義久邸に召喚された宗親は陳謝したものの、「御台所の指示に従うことは当然だが、頼朝へ内々に相談もせずに狼藉を働いたことは不埒である」として髻を切られる恥辱を受けたため逃亡した。その2日後、宗親への所業に対する抗議として時政が伊豆国へ一時籠居してしまっている。その後も時政・牧の方の側近としての活動が見られ、また御家人としての活動も見られ、鎌倉勝長寿院や建久6年(1195年)の東大寺大仏殿の落慶供養に随兵として列参している。

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鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』によると、亀の前は頼朝の伊豆国での流人暮らしの頃から仕えており、容貌すぐれて柔和な性格で気に入られ、頼朝は寿永元年(1182年)の春頃から密かに亀の前を鎌倉に呼び寄せて寵愛していた。

頼朝の正室北条政子が万寿(後の源頼家)を妊娠中の寿永元年(1182年)6月、日を追って寵愛が増した頼朝は亀の前を小坪(逗子市)の中原光家の宅に呼び寄せる。外聞を憚って居拠を遠くに構えたという。

その後、頼朝は亀の前を飯島(逗子市)の伏見広綱の宅へ移して寵愛を続けた。8月12日に出産した後、この事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、11月10日、牧の方の兄・牧宗親に命じて広綱宅を破壊する後妻打ち(うわなりうち)を行い、大いに恥辱を与えた。亀の前は広綱に連れられ、命からがら鐙摺(葉山町)の大多和義久の宅へ逃れた。

11月12日、怒った頼朝は遊興にことよせて鐙摺に出向き、牧宗親を呼び出して叱責した。宗親は顔を地にこすりつけて平伏したが、怒りの収まらない頼朝は自ら宗親の髻を切って辱めた。宗親は泣いて逃亡した。これを知った政子の父・北条時政は義兄である宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆国へ立ち退いてしまう騒動に発展した。

12月10日、亀の前は小坪の中原光家の宅へ移された。亀の前は政子の嫉妬をひどく恐れたが、頼朝の寵愛は深まった。16日、政子の怒りが収まらず、伏見広綱は遠江国流罪となった。

この騒動の顛末がどうなったかは、『吾妻鏡』の寿永2年(1183年)が欠文のため追うことができない。亀の前のその後も不明である。

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