https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

ja.wikipedia.org

鎌倉幕府第7代執権(在職:1264年 - 1268年)。2代執権北条義時の五男。母は継室の伊賀の方。3代執権北条泰時は異母兄にあたる。政村流北条氏の祖であり、12代執権北条煕時は曾孫にあたる。13代執権北条基時も血縁的には曾孫である。

幼少の得宗北条時宗(泰時の曾孫)の代理として7代執権となり、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処にあたり、一門の宿老として嫡流得宗家を支えた。

ja.wikipedia.org

鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂家将軍九条頼経とも呼ばれる。

両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠縁ながら血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。

竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。

生まれたのが寅年・寅月・寅刻だったので、幼名を三寅(みとら)と言った。

3代将軍・源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府は皇族を将軍に迎えようとして、有力御家人一同が連署した上奏文を携えた使者を京都へ送ったが、後鳥羽上皇に拒否される。そのため源頼朝の同母妹(坊門姫)の曾孫にあたる2歳の頼経が鎌倉に迎え入れられた。三寅の鎌倉下向から数年間は北条政子が尼将軍として三寅を後見して将軍の代行をしていた。その後、承久の乱をはさんで、6年後の嘉禄元年(1225年)12月29日、元服し頼経と名乗る。翌嘉禄2年(1226年)、将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。寛喜2年(1230年)12月9日、2代将軍・源頼家の娘で16歳年上の竹御所を妻に迎える。しかし、北条義時・政子姉弟の担ぎ挙げた傀儡将軍であり、頼経の元服直前に義時と政子が相次いで死去するものの、その立場は北条泰時と叔父時房に引き継がれた。

ja.wikipedia.org

承久の乱での後鳥羽上皇側の大将軍。

藤原北家秀郷流の藤原秀宗の長男

北面武士西面武士として院に仕える畿内近国の武士の一族で、下野守、河内守、備前守能登守、上総介など国司を歴任し、富裕並びなき者とされた。後鳥羽上皇の討幕計画に参与し、有力御家人三浦義村の弟・胤義を説得して味方に引き入れた。

京方の大将軍として弟・秀澄と共に美濃国宇治川幕府軍と戦うが敗北。後鳥羽上皇は秀康らを見捨てて、乱を引き起こした謀臣として逮捕の院宣を出した。秀康は奈良に潜伏するが、10月に河内国で捕らえられ、秀澄と共に京で斬られた。

優れた歌人であった弟・秀能は出家して許され、後に遠島された後鳥羽法皇を慕い隠岐島へ渡っている。

多摩川浅間神社

安養院

#テレビ