源実朝の暗殺により源氏将軍は途絶え、一族も次々と命を落とす中、最後まで生き残ったのが頼朝の子、貞暁と頼家の娘、竹御所の2人でした。
— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) 2022年11月29日
仏門に入った貞暁と、4代将軍九条頼経に嫁ぎ、最期まで源氏の跡継ぎを残そうとした竹御所について紹介しています!https://t.co/HD7vIrzKq1#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/UadiP3kDti
実朝暗殺事件で、実際に公暁の首を取ったのは三浦義村の配下、長尾定景でした。
— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) 2022年12月3日
長尾定景は上杉謙信の祖先にあたり、かつて頼朝と敵対した大庭景親や13人の合議制の1人、梶原景時とも同族にあたります。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/PgFkXadFSf
\#鎌倉殿の13人 あらすじ/
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) 2022年12月3日
第46回「将軍になった女」
公式HPでは フォトギャラリーなどのコンテンツもお楽しみいただけます。
あす12月4日(日)
[総合]夜8時
[BSP・BS4K]午後6時#小栗旬 #小池栄子 #坂口健太郎#尾上松也 #菊地凛子 #山本耕史 ほかhttps://t.co/yZWAi8wU7X
\#鎌倉殿の13人 相関図/
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公式HPでは
第46回「将軍になった女」の相関図を公開しています。
放送前の予習に ぜひご活用ください。
あす12月4日(日)
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\本日放送!/#鎌倉殿の13人
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第46回「将軍になった女」
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\#鎌倉殿の13人 インタビュー/
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) 2022年12月4日
三浦義村役・山本耕史さんのインタビューを公開しました。#山本耕史 #三浦義村https://t.co/7GL0eIS0ZJ
\#鎌倉殿の13人 コラム/
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教えて!時代考証・ #木下竜馬 さん
「鎌倉幕府の文書ってどんなものがあるの?」を公開しました。https://t.co/QzTLY98qfa
\#鎌倉殿の13人 コラム/
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教えて!時代考証・ #木下竜馬 さん
「下文の正しい書き方」を公開しました。https://t.co/4aAWWFNBzr
\#鎌倉殿の13人 紀行/
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第46回「東京都大田区/神奈川県横浜市・鎌倉市」を公開しました。https://t.co/WHHESfK83c
/#吾妻鏡
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) 2022年12月4日
建保7年(1219)2月15日条
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申の剋(さるのこく/午後3時~5時)に駿河国から鎌倉に飛脚が到着し、「阿野時元が去る11日に多勢を率いて、奥深い山に城郭を構えました。これは宣旨を賜って東国を支配しようと企てたものです」と報告しました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/4vBAu02WYh
/#吾妻鏡
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) 2022年12月4日
建保7年(1219)2月22日条
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派遣された御家人たちが駿河国安野郡に到着し、阿野時元とその一党を討ち取りました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/g2TnyXxj8Q
/#吾妻鏡
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) 2022年12月4日
建保7年(1219)2月23日条
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酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に駿河国から鎌倉に飛脚が到着し、「阿野時元が自害した」と報告しました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/ckfy9b0isY
/#吾妻鏡
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) 2022年12月4日
建保7年(1219)閏2月12日条
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京から鎌倉に使者が到着し、「親王の下向について今月1日に審議があり、後鳥羽上皇が『(雅成親王と頼仁親王の)二人のうち一人を必ず下向させよう。ただし、今すぐにというわけにはいかない』と同4日に命じられた」と報告しました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/Z56dRGhTrC
/#吾妻鏡
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) 2022年12月4日
建保7年(1219)3月9日条
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後鳥羽上皇の使者が政子の屋敷に参上し、源実朝の死について後鳥羽上皇が特に嘆き悲しんでいると伝えました。またその後、北条義時と面会し、摂津国長江庄と倉橋庄の地頭職を停止するように命じた後鳥羽上皇の院宣を届けました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/1jp9ZVaUHL
/#吾妻鏡
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) 2022年12月4日
建保7年(1219)3月12日条
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北条義時、北条時房、北条泰時、大江広元が政子の屋敷に集まり、後鳥羽上皇の院宣について、「『追って回答します』と返答したため、速やかに決定しなければ後鳥羽上皇の機嫌を損ねることになるかもしれない」と審議があったようです。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/SXsaGVbilF
/#吾妻鏡
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) 2022年12月4日
建保7年(1219)3月15日条
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政子の使者として、北条時房が千騎を従えて上洛しました。これは、後鳥羽上皇の院宣について回答し、親王の下向について催促するためです。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/hxkNg2iWEL
/#吾妻鏡
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) 2022年12月4日
承久元年(1219)7月19日条
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左大臣・九条道家の賢息・三寅が関東に下向しました。これは政子が亡き源頼朝との深い縁を重んじて京から新たな鎌倉殿として迎えようと朝廷に申請していたもので、先月3日に宣下がありました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/BtBkxiqxCE
/#吾妻鏡
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) 2022年12月4日
承久元年(1219)7月19日条
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酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に政所始(まんどころはじめ)が行われました。三寅が幼いうちは、政子が裁断することになったようです。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/70qw8bB8if
第46回「将軍になった女」をご覧いただきありがとうございました。
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) 2022年12月4日
見逃した方、もう一度見たい方は ぜひ #NHKプラス でご覧ください。
▼配信ページはこちらhttps://t.co/WitT7geJmH
※配信期限 : 12/11(日) 午後8:44 まで
※要ログイン#鎌倉殿の13人#小池栄子 pic.twitter.com/wlLe0T0SqR
のえの子 北条政村は三浦義村を烏帽子親として元服し、義村の「村」の字をもらい政村と名乗りました。
— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) 2022年12月4日
正室に三浦義村の姪を迎えており、三浦氏とは深いつながりを持つことになります。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/lUgHGChbUR
鎌倉幕府第7代執権(在職:1264年 - 1268年)。2代執権北条義時の五男。母は継室の伊賀の方。3代執権北条泰時は異母兄にあたる。政村流北条氏の祖であり、12代執権北条煕時は曾孫にあたる。13代執権北条基時も血縁的には曾孫である。
幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として7代執権となり、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処にあたり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。
鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。
両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠縁ながら血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。
竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。
生まれたのが寅年・寅月・寅刻だったので、幼名を三寅(みとら)と言った。
3代将軍・源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府は皇族を将軍に迎えようとして、有力御家人一同が連署した上奏文を携えた使者を京都へ送ったが、後鳥羽上皇に拒否される。そのため源頼朝の同母妹(坊門姫)の曾孫にあたる2歳の頼経が鎌倉に迎え入れられた。三寅の鎌倉下向から数年間は北条政子が尼将軍として三寅を後見して将軍の代行をしていた。その後、承久の乱をはさんで、6年後の嘉禄元年(1225年)12月29日、元服し頼経と名乗る。翌嘉禄2年(1226年)、将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。寛喜2年(1230年)12月9日、2代将軍・源頼家の娘で16歳年上の竹御所を妻に迎える。しかし、北条義時・政子姉弟の担ぎ挙げた傀儡将軍であり、頼経の元服直前に義時と政子が相次いで死去するものの、その立場は北条泰時と叔父時房に引き継がれた。
藤原秀康は和田義盛の縁戚にあたる人物です。
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和田義盛の弟、和田宗実の子、秀宗が、藤原秀郷の流れを汲む藤原秀忠の養子になり、藤原秀康に続いたとされます。
藤原秀康は、和田義盛が上総介任官を願い出た際に、義盛に代わって上総介になり、義盛は諦めたという因縁もありました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/Xg3sLKIs3s
北面武士、西面武士として院に仕える畿内近国の武士の一族で、下野守、河内守、備前守、能登守、上総介など国司を歴任し、富裕並びなき者とされた。後鳥羽上皇の討幕計画に参与し、有力御家人の三浦義村の弟・胤義を説得して味方に引き入れた。
京方の大将軍として弟・秀澄と共に美濃国と宇治川で幕府軍と戦うが敗北。後鳥羽上皇は秀康らを見捨てて、乱を引き起こした謀臣として逮捕の院宣を出した。秀康は奈良に潜伏するが、10月に河内国で捕らえられ、秀澄と共に京で斬られた。
安養院
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