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遠く鎌倉から弟・範頼、義経に念願である平家討伐を命じる源頼朝。しかし、現場は思うようには進みません。長門(現在の山口県)まで進撃した範頼軍は、兵船の欠如から九州への渡海が難航。長期滞在によって兵糧も欠乏し、従軍する御家人たちの多くが所領への帰国を望むほど士気が低下してしまいます。一方、平家の拠点の一つである屋島(現在の香川県高松市)を攻撃する予定であった義経軍も、出撃の目処が立たずに停滞。畿内で平家の郎党が蜂起したことにより、後白河法皇が都の治安を守ることを求めたため、義経はなかなか京を離れることができない状況にありました。一ノ谷の戦いで劇的な勝利を収めた鎌倉軍ですが、平家方は依然として瀬戸内海の制海権を掌握しており、緊迫した状況は続いていたのです。
現代のような通信技術のない当時では、情報も錯綜。『吾妻鏡』〈元暦2年(1185)1月6日条〉によると、この日、頼朝は範頼に宛てて書状を送りますが、それが範頼のもとへ届くよりも早く、事態は大きく動くことになります。

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平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院平徳子)は同母妹である。

5月7日、宗盛・清宗は義経に連行されて鎌倉に向かう。九条兼実は「配流の儀にあらず」と記しており、死罪は決定していたと思われる。宗盛は輿に、清宗は騎馬に乗り、5月16日、鎌倉に入った。6月7日、宗盛は敗軍の将として頼朝の前に引き出される。頼朝は勝者として簾の中から宗盛を眺め、比企能員に自らの言葉を伝えさせた。『吾妻鏡』『平家物語』によれば、宗盛は卑屈な態度に終始して助命を乞い、集まった者から非難・嘲笑されたという。

6月9日、宗盛は京都に送還され、21日に義経の命を受けた橘公長の手により、近江国篠原宿で斬首された。享年39。嫡男・清宗、次男・能宗(幼名・副将)、その他男児二人(名前は不明)も順次処刑され、宗盛の男系血統は途絶えた。『平家物語』では「父子とも野洲で」、『源平盛衰記』では「6月22日に父子とも勢多で斬られた」とも記されている。

野洲市大篠原の山林には、宗盛の胴塚が残されている。さらに近くには、宗盛の首を洗ったと伝えられる「首洗い池」があったが2000年前後の土地開発時に失われている。2021年には、地元住民有志が歴史伝承の一環として池を復元した。

壇ノ浦の戦いにおいて、平氏の大敗が決定的になり、一門が次々と入水していく中、棟梁である宗盛はうろたえるばかりであった。それを見た平氏の諸将はあまりのみっともなさに嫌気が差し、ついには宗盛を捕まえて、無理やり海に突き落とした。しかし、泳ぎの名手であった宗盛は、源氏の兵に助けられた。宗盛は長男清宗と同様、肥満だったため浮きやすかったとも言う。(『平家物語』)

平家終焉の地

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