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 この日、ひどく体調が芳しくない義時は、毒消し薬を取ってほしいと頼む。「私にはまだやらねばらぬことがある。隠岐上皇様の血を引く帝が、返り咲こうとしている。何とかしなくては」「まだ手を汚すつもりですか」「この世の怒りと呪いをすべて抱えて、私は地獄へ持っていく。太郎のためです。私の名が汚れる分だけ、北条泰時の名が輝く」「そんなことしなくても、太郎はきちんと新しい鎌倉をつくってくれるわ」「薬を」「わたくしたちは、長く生きすぎたのかもしれない」。政子は小さな瓶を逆さにし、薬を床にこぼす。「姉上…」「寂しい思いはさせません。わたくしもそう遠くないうちにそちらへ行きます」「私は、まだ死ねん!」。義時は最後の力を振り絞って立ち上がるが、バランスを崩して倒れ込む。

 「まだ!」。薬を舐めようと床を這いつくばるが、それも政子が袖で拭いてしまう。「太郎は賢い子。頼家様やあなたができなかったことを、あの子が成し遂げてくれます」。悶え苦しみ、息も絶え絶えの義時。「北条泰時を信じましょう。賢い八重さんの息子」「確かに…、あれを見ていると…、八重を…思い出すことが…」「でもね、もっと似ている人がいます。あなたよ」「姉上…、あれを…太郎に…」。義時が指さし、部屋の隅にあるのは、源頼朝大泉洋)の形見の小さな観音像(髻観音)――。

 政子「(髻観音を手に、義時に一歩近寄り)必ず渡します」

 義時「姉上…」

 政子「ご苦労さまでした…小四郎」

 政子はさらに近寄り、弟の顔に手をやった。義時は静かに息を引き取る。政子の嗚咽だけが聞こえる。

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隠岐に流されても和歌で朝廷を操ろうとしていた 後鳥羽上皇の生涯 【鎌倉殿の13人】

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父の順徳天皇が、祖父の後鳥羽上皇と共に鎌倉幕府執権であった北条氏追討の挙兵(いわゆる承久の乱)に参加するため、承久3年(1221年)4月20日に譲位され4歳で践祚。同年、祖父の後鳥羽上皇承久の乱を起こしたが、北条義時の遣わした泰時率いる幕府軍に敗北。後鳥羽上皇順徳上皇はそれぞれ隠岐佐渡に、土御門上皇も自ら望んで土佐に配流された。7月9日に幕府の手によって懐成親王仲恭天皇)は皇位を廃され、高倉天皇の第二皇子である守貞親王後高倉院)の皇子・茂仁王(後堀河天皇)が即位した。懐成親王は幼児で、幕府の将軍(摂家将軍)三寅(後の九条頼経)の従兄弟であることから、その廃位は予想外であったらしく、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府に懐成親王の復位を願う願文を納めている。まもなく母親の実家である摂政・九条道家天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に引き渡され、天福2年(1234年)に17歳で崩御。歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇である。

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理加ちゃんこんばんはだもんね(・∀・)

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毎週、このアナウンサー可愛くなってる気がするんだが(´・ω・`)

もんねと蟹旅行行きたいもんね(´・ω・`)

リカちゃんの駄洒落待ち

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