『鎌倉殿の13人』“義経への裏切り・追討”と“頼朝の最期”はどう描かれるのかhttps://t.co/iMcNkkBW3C
— NEWSポストセブン (@news_postseven) 2022年5月14日
史実では今後、主要キャストにさらなる重大事件が待ち受ける。激動の歴史を脚本の三谷幸喜氏はどう描くのか。#NEWSポストセブン #芸能記事 #鎌倉殿の13人
\#鎌倉殿の13人 あらすじ/
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第19回「果たせぬ凱旋」
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あす5月15日(日)
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『吾妻鏡』によると、元暦元年(1184)10月6日に公文所吉書始が行われ、同20日に問注所が開設されました。御家人を統制する軍事機関である侍所に続き、文書の制作・発給を担当する公文所、裁判を担当する問注所という、二つの文治的な政治機関が源頼朝のもとに設置されたのです。
公文所の長官である別当に就任したのは、広い知識と高い政治的判断力を有する大江広元。中原親能、藤原行政、足立遠元らが寄人として広元を補佐しました。一方、問注所の長官である執事に就任したのは、頼朝の流人時代から献身的に支え続けた三善康信でした。三善康信は元暦元年(1184)4月14日に京から鎌倉に下向したようです。
\#鎌倉殿の13人 相関図/
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公式HPでは
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あす5月15日(日)
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\本日放送!/#鎌倉殿の13人
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第19回「果たせぬ凱旋」
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静御前の母は磯禅師といい、白拍子の元祖といわれています。
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平清盛とともに国政改革を進めた信西の読んだ歌を、白い水干を着て男装姿で踊り、白拍子を始めました。
のちに、白拍子を貴族の屋敷に送る元締めの役割も担い、自然と静御前も白拍子の道を歩むようになりました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/19r8qnnoL7
\#鎌倉殿の13人 インタビュー/
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平知康役・矢柴俊博さんのインタビューを公開しました。#矢柴俊博 #平知康https://t.co/n1pBqhlXJx
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VFX・DXプロデューサー・結城崇史のコラムを公開しました。https://t.co/UivDeiJGvb
\#鎌倉殿の13人 紀行/
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第19回「京都府京都市/奈良県吉野町」を公開しました。https://t.co/XOuLfXLgkV
/#吾妻鏡
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文治元年(1185)8月29日条
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去る8月28日に小除目(こじもく)によって多くの源氏が朝恩を賜り、源義経が伊予守の官職を得ました。これは、去る4月に朝廷に行っていた申請が受け入れられた結果のようです。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/jZ3poMI5gq
/#吾妻鏡
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文治元年(1185)8月30日条
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平治の乱で命を落とした源頼朝の父・義朝と、従者の鎌田正清の首が鎌倉に到着。頼朝は、片瀬川辺りで文覚の門弟が首に掛けて奉っていた遺骨を受け取り、御所へと帰ったようです。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/0XObSazKgk
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文治元年(1185)10月17日条
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土佐坊昌俊が60余騎の軍士を引き連れて、源義経の宿所を襲撃。義経はわずかな家人とともに自ら門戸を開いて戦い、昌俊を退けました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/3QdmudOIbK
/#吾妻鏡
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文治元年(1185)10月17日条
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土佐坊昌俊による源義経の宿所への襲撃を知った源行家は、義経のもとに駆けつけました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/ZyBa1MfNEl
/#吾妻鏡
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文治元年(1185)10月18日条
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源義経の求めに応じ、後白河法皇が源頼朝追討の宣旨を出しました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/4GjhiWNgiV
/#吾妻鏡
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文治元年(1185)10月29日条
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源義経、源行家を討伐するため、源頼朝が京へ向けて鎌倉を出発しました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/49c1ExTbk3
/#吾妻鏡
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文治元年(1185)11月3日条
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源義経、源行家が再起を図るため京を離れ、西海へと向かいました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/CLJLvX1ODz
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文治元年(1185)11月6日条
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この日、後白河法皇から源義経、源行家の両人を探し出して捕らえるようにという院宣が出されました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/lvnqnssoXT
/#吾妻鏡
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文治元年(1185)11月25日条
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この日、北条時政が京へ入り、源義経、源行家の反逆について源頼朝が不満を感じていることを後白河法皇に細かく申し入れました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/Weh8B0ZkeM
第19回「果たせぬ凱旋」をご覧いただきありがとうございました。
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見逃した方、もう一度見たい方は ぜひ #NHKプラス でご覧ください。
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※配信期限 : 5/22(日) 午後8:44 まで
※要ログイン#鎌倉殿の13人#大泉洋 #菅田将暉 pic.twitter.com/DdQ6TnUWgX
頼朝と弟の源義経が対立した文治元年(1185年)、頼朝は京にいる義経を誅するべく御家人達を召集したが、名乗り出る者がいなかった。その折、昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせた。昌俊は出発前、下野国にいる老母と乳児の行く末を頼朝に託し、頼朝は彼らに下野国の中泉荘を与えている。
昌俊は弟の三上弥六家季ら83騎の軍勢で10月9日に鎌倉を出発し、17日に京の義経の館である六条室町亭を襲撃する(堀川夜討)。義経の家人達は出払っていて手薄であったが、義経は佐藤忠信らを伴い自ら討って出て応戦した。後に源行家の軍勢も義経に加わり、敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが義経の郎党に捕らえられ、26日、家人と共に六条河原で梟首された(『吾妻鏡』)。義経は襲撃翌日の18日に、頼朝追討の宣旨を後白河法皇から受け取ると、直ちに挙兵の準備を開始した。
なお『吾妻鏡』によれば、頼朝は昌俊に対し9日間で上洛するように命じているが、義経の元には13日に暗殺計画が伝えられており、同日(『玉葉』では16日)に義経は後白河法皇に頼朝追討令宣旨の勅許を求めている。従って義経らは、昌俊の襲撃を予め知って待ち構えていた可能性が高い。(『平家物語』延慶本では、昌俊らは9月29日に鎌倉を出発して、10月10日に京に到着したことになっている)
また、昌俊の出発と入れ替わるように源範頼・佐々木定綱らが、治承・寿永の乱に従軍していた御家人を連れて京都を出発、関東に帰還しており、義経とその配下の従軍者との引き離しを終えていた。さらに頼朝追討の宣旨が出された事を報じる使者が鎌倉に着いた22日には、勝長寿院にて24日に開かれる予定の源義朝の法要のために、各地の御家人やその郎党が鎌倉に集結しつつあった(頼朝は法要終了後、直ちに彼らを義経討伐に派遣している)。これらの状況から、頼朝による昌俊派遣の目的は義経暗殺そのものよりも、義経を挑発して頼朝に叛旗を翻す口実を与えることであったとの見方もある。
なお、昌俊が頼朝から派遣された刺客であるとするのは義経側の主張であって、編纂物である『吾妻鏡』や『平家物語』が示すような鎌倉(頼朝)側の動きを立証する同時代史料は存在しない。このことから、兄・頼朝との対立を避けられないと考えた義経が先に頼朝追討を決意した結果、在京あるいは畿内周辺に拠点を持つ御家人が動揺し、その中にいた土佐坊昌俊・三上家季兄弟らが、頼朝への忠義から率先して義経排除を決意した、とする説もある(三上氏は近江国野洲郡の出身とされるため、昌俊兄弟の元の本拠地も同地であった可能性がある)。
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