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写真の光 | Far East Alexandria

菅原道真公に関する調査で
宇多天皇陵に行きましたが、
なぜこんな山の中にと思える
隔離された場所にあります。

私の調べた内容からすると、
時代のイメージを覆すだけの
深層が存在しているのですが、
関係者はやり切れない思いを
続けている可能性があります。

雰囲気的にも結構な差があり、
直接参拝して色々と話すと、
この様に雰囲気が変わる事が
そこそこあったりします。

宇多天皇 大内山陵

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なお宇多が勅願寺として仁和寺を建立したのは、この阿衡事件の最中の仁和4年のことである。

宇多天皇は基経の嫡子時平を参議にする一方で、源能有など源氏や菅原道真藤原保則といった藤原北家嫡流から離れた人物も抜擢した。この期間には遣唐使の停止、諸国への問民苦使の派遣、昇殿制の開始、日本三代実録類聚国史の編纂、官庁の統廃合などが行われた。また文化面でも寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、これらが多くの歌人を生み出す契機となった。

宇多は寛平9年7月3日(897年8月4日)に突然皇太子敦仁親王元服させ、即日譲位し、太上天皇となる。この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている(後述の『大鏡』にある陽成上皇の言がその暗示と考えられている)。譲位にあたって書かれた『寛平御遺誡』には右大臣源能有の死に強い衝撃を受けたことが書かれており、これを譲位と結びつける見方もある。

新たに即位した醍醐には自らの同母妹為子内親王を正妃に立て、藤原北家嫡流外戚となることを防ごうとした。また譲位直前の除目で菅原道真権大納言に任じ、大納言で太政官最上席だった時平の次席としたうえで、時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた。しかしこの人事は権門の公家には不評で、公卿が職務を拒むという事件に発展した。道真は宇多に願ってかかる公卿らに出仕を命じてもらい、ようやく新政がスタートした。

宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方で仏道に熱中し始めた。昌泰2年(899年)10月24日には出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに高野山比叡山熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分に行えなくなった。

昌泰4年(901年)正月、道真は宇多の子で自らの婿でもある斉世親王皇位に即けようとしていたという嫌疑で、大宰府へ左遷された。この知らせを受けた宇多は急遽内裏に向かったが、宮門は固く閉ざされ、その中で道真の処分は決定してしまった。日本史学者の河内祥輔は、宇多は自己の皇統の安定のために醍醐の皇太子決定を急ぎ、結果的に当時男子のいなかった醍醐の後継をその弟から出すことを考えるようになった。加えて醍醐が許した基経の娘・藤原穏子の入内にも反対したために、これに反発した醍醐が時平と図って法皇の代弁者とみなされた道真を失脚させたという説を提示している。それでも晩年には病気がちの醍醐天皇に代わって、実際の政務をみていた可能性もあると考えられている。

陽成上皇との関係は微妙だった。宇多は皇位に即く前に侍従として陽成の側に仕えており、神社行幸の際には舞を命じられたこともあった。『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話が残っているが、陽成が復位を画策しているという風説は宇多を悩ませた。

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皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住んでいたことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。

仁和寺平安時代後期、光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建てられ始めた。しかし、光孝天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御し、その遺志を引き継いだ子の宇多天皇によって仁和4年(888年)に落成した。当初「西山御願寺」と称され、やがて元号をとって仁和寺と号した。

出家した宇多天皇宇多法皇として仁和寺伽藍の南西に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住した。そのため、仁和寺は「御室御所」とも称された。

その後、代々の別当宇多天皇の子孫が務めていた。そこに、三条天皇の皇子である性信入道親王別当の上に新設された検校に任じられた。これ以降、当寺は皇族の子弟が入る寺院とみなされるようになった。

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父帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて藤原時平菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われるようになった。

しかし昌泰4年(901年)、時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷した昌泰の変は、聖代の瑕と評されることになった。近年ではこの事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられている。また同じ年に時平の妹・藤原穏子が女御として入内しており、後に中宮に立っていることからも、この事件はそれまで宇多上皇が採ってきた藤原氏を抑制する政策の転換という側面があったとも考えられている。

天皇ははじめ中宮藤原穏子との間に儲けた長子保明親王東宮とし、その御息所に時平の娘・仁善子を入れていたが、延喜9年(909年)に時平が死に、延喜23年(923年)には親王も21歳で早世する。そのため仁善子の子慶頼王を皇太孫としたが、2年後やはり5歳で夭折した。一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂されたため、延喜23年(923年)になって天皇道真を左遷した詔を覆し、道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めた。

しかし延長8年6月(930年7月)に清涼殿落雷事件が起きると難を逃れたものの、心労が重なったこともあり、これ以後体調を崩し、9月22日にはいよいよ病篤きによって皇太子寛明親王保明親王の同母弟)に譲位する。

蒲原宏さん(98)は、1945年、多くの特攻隊員が飛び立った鹿児島県にある海軍の航空基地で軍医をしていました。そこで「出撃前の特攻隊員に覚醒剤を注射していた」と証言します。

 (蒲原宏さん)
 「僕は初めはヒロポンとは知らなかったわけですよ。黒いケースに10本アンプルが入っていて、説明書にはただ『筋肉内注射しろ』と。『出発前にやれ』という命令だけでよくわからなかった」

 上官の命令で約300人の特攻隊員に覚醒剤とは知らずに注射をしていたといいます。その目的は…

 (蒲原宏さん)
 「眠らないためということが主目的でしたね。戦闘力というか興奮させるといいますかね、そういうものを増進させることが目的だったようですね」

 鹿児島の基地から戦場の沖縄までは戦闘機で3時間ほどの距離があり、夜間の出撃で眠ってしまわないようにする狙いがあったといいます。

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