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 愛子さまは現在、約700のアカウントをフォローされている。そのフォロー先は多岐にわたり、愛子さまのお人柄やご興味の幅が浮かんでいる。

スマホ代を安くしたり、冷暖房代を抑えるテクニックのほか、チェーン展開しているアイスクリームショップの割引情報などといった、日常的なお役立ち情報を発信するアカウントもフォローされています」(前出・学習院関係者)

「子育て系アカウント」を複数フォローされている。幼い子供のかわいらしい姿と、その子供を慈しんで育てる様子が伝わるものだ。

「ご結婚後、愛子さまがどのようなお立場に立たれるのかは不透明な状態が続いています。しかし、SNSのフォローからは、愛子さまがどちらにしても子供を持ち育ててみたいというお考えをお持ちなのではないかとも思えるのです」(皇室記者)

「最近の秋篠宮家の方々を見ていると、国民感情とズレている場面がしばしば見られます。もし悠仁さまが天皇になられても状況が変わらなければ、皇室そのものへの支持が揺らぎかねない。

しかも愛子さまは昨年で22歳になられて、結婚も人生の選択肢の1つに浮かびつつあると言えます。ご結婚されて皇室を離れられる前に、結論を出さねばなりません」

皇室典範はあくまでも法律であるため、国会で過半数が賛成すれば改正は可能。憲法に比べてハードルは低い。中でも大きく変更が必要なのは、これら2つの条文だろう。

第1条〈皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する〉

第12条〈皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる〉

天皇と男性のみの血縁でつながった関係を「男系」、間に1人でも女性がいる関係を「女系」という。愛子さまは父が天皇陛下である男系女子のため、第1条を改正する際は、文中の「男子」を「子女」とすればいい。

しかしそれだけではご結婚されると皇室から離れてしまうので、結婚後も皇族の身分を保てるよう第12条も変える必要がある。これがいわゆる「女性宮家」の創設だ。

皇室典範は国家の根幹に関わる法律であり、改正するとなれば国を二分する議論になりかねない。そう簡単に改正できるものではありません。

仮に手を加えるとなれば、議論の流れを作るのは国会ではなく政府でしょう。世論の動向を見つつまずは有識者会議を立ち上げて、答申を受けたという体裁を整えてから、特例法を制定する形で進めるはずです」

「まずは佳子さまと愛子さまが結婚後も皇室に残れるよう、女性宮家の創設に論点を絞った有識者会議が設置され、特例法を成立させるのではないでしょうか。そして愛子さまが皇室から離れないと決まった段階で、あらためて女性天皇について検討する有識者会議が立ち上がると考えられます。

会議で結論が出るまでに約2年、立法に約1年かかるとして合計で6年。実現するとすれば、早くても2030年あたりになるでしょう」

生前退位の特例法と同じく、国会では全会一致で決議したという体裁を取ろうとするでしょう。政府が事前に各会派としっかりと法案をすり合わせて、合意を得られる形になるまで詰めるはずです。

普通の法案のように予算委員会などで激しい議論を行うのではなく、議院運営委員会や特別委員会などで少しだけ議論して、全会一致で可決すると思われます」

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#天皇家

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鎌倉時代両統迭立は、後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統とのあいだで行われた。

仁治3年(1242年)に即位した後嵯峨は、寛元4年(1246年)に皇太子久仁親王後深草天皇、4歳)に譲位して院政を開始したあと、後深草皇子が生まれるのを待たず、正嘉2年(1258年)に後深草(16歳)の同母弟恒仁親王亀山天皇、10歳)を皇太子とし、さらに翌正元元年(1259年)には後深草から恒仁に譲位させた。深草にはその後皇子が生まれたが、文永5年(1268年)、後嵯峨は、深草の嫡男(第2皇子)煕仁親王(4歳)をさしおいて亀山の嫡男(第2皇子)世仁親王(2歳)を皇太子とした。

幕府は、後嵯峨の正妻であり後深草と亀山の生母でもある大宮院(西園寺姞子)に故人の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山の名を挙げたことから亀山を治天に指名した。

亀山はしばらく在位のまま政務を執り、文永11年(1274年)には皇太子世仁(8歳、後宇多天皇)に譲位した。

深草の不満を受けて承久の乱以来の慣行に従って幕府が皇位継承に介入し、建治元年(1275年)に煕仁(11歳)を皇太子に指名、将来、後深草が治天となることを保証した。この介入は、執権北条時宗が後深草の立場に同情したためという説明が当時からなされている(「増鏡」)ほか、得宗と治天の交渉を仲介する立場にある関東申次西園寺実兼が亀山父子よりも後深草父子と親しかったため、後深草にとって有利な解決をはかったことも指摘されている。この時点ですでに幕府は摂関家が分裂したのと同様に皇統をも分裂させる意図を持っていたとも言われる(本郷和人)が、幕府の意図は元寇の最中にあって内憂を取り除くべく後深草の不満を和らげ、皇族・廷臣融和を図るというものであり、そのことが後に皇統の分裂につながるとは思い及んでいなかったとの指摘もあり(近藤成一)、この点は史料がなく真相は不明である。鎌倉時代には、公家社会一般で分家を次々に創出させる傾向が見られたことにも留意する必要がある。いずれにしても、建治元年の幕府の介入によって、後深草と亀山の両者が等しく皇位を子孫に伝え自らは治天となる資格を有することが確定し、これが以後200年に及ぶ皇統分裂の端緒となった。