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— amitamu (@amitamu91) May 7, 2023
三方ヶ原の戦い以前の政治情勢
— うっちー (@rekishock0919) May 4, 2023
織田…幕府を支えるために武田と手を組む
徳川…対立する武田を抑えるために上杉と手を組む、武田織田同盟の崩壊を画策
武田…徳川、上杉と対立、対上杉のために本願寺、朝倉と手を組む→信長包囲網へ
武田vs徳川、上杉陣営が全国を巻き込んでいった感じか
織田信長は武田信玄との甲尾同盟を守るために必死になっていたけど、徳川家康は対立する信玄と信長の仲を割くために色んな邪魔をしている。
— うっちー (@rekishock0919) May 6, 2023
この時期の信長、信玄との同盟を維持するために家康を切り捨てるという考えは全くなかったのだろうか…?#どうする家康
勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む。
当初、徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え、籠城戦に備えていた。一方の武田軍は、二俣城攻略から3日後の12月22日に二俣城を出発すると、遠州平野内を西進する。これは浜名湖に突き出た庄内半島の北部に位置する堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を標的とするような進軍であり(堀江城攻略の意図については後述)、武田軍は浜松城を素通りしてその先にある三方ヶ原台地を目指しているかにみえた。
これを知った家康は、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、織田からの援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出た。そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を敷き万全の構えで待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は鶴翼の陣をとり両軍の戦闘が開始された。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍は武田軍に撃破され、日没までのわずか2時間ほどの会戦で連合軍は多数の武将が戦死して壊走する。
武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は死傷者2,000人を出した。特に、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱といった有力な家臣をはじめ、先の二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治や、家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、また織田軍の平手汎秀といった武将を失った。このように野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや本多忠勝などの武将の防戦により、家康本人を討ち取ることはできなかった。
三方ヶ原の戦い(1573)の頃の登場人物の年齢(満年齢)
— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) May 7, 2023
徳川家康 29歳
瀬名 31歳前後
本多忠勝 25歳
榊原康政 25歳
本多忠真 42歳
夏目広次 55歳
石川数正 40歳
井伊直政 11歳
水野信元 51歳前後
佐久間信盛 45歳前後
武田信玄 51歳
山県昌景 44歳
武田勝頼 27歳#どうする家康 pic.twitter.com/IPpYdY9F2F
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