#天皇家
1817年12月2日、島津久光が生まれました。
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島津斉彬の異母弟として生まれ、子の島津忠義が藩主となったことから、国父として薩摩藩の実権を握り、幕末の政局に深く関わりました。
明治維新後も政府は久光に気を使いましたが、西郷隆盛や大久保利通の死後はそれも亡くなり不満だったといいます。 pic.twitter.com/uSbhIfoxZ4
1858年12月2日、内閣総理大臣、海軍大臣を務めた斎藤実が生まれました。
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斎藤は二・二六事件で暗殺されますが、数日前、警視庁が陸軍の不穏な動きを忠告していました
しかし斎藤は「気にすることはない。別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたといいます。 pic.twitter.com/TVDAqPjzu0
斎藤春子は、二・二六事件で暗殺された斎藤実の妻です。
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事件当日、彼女は将校達の向ける機関銃の筒先を持ち、 「斎藤の命は国家に捧げました。時期が来れば差し上げます。しかし、まだその時ではありません。斎藤を撃つなら私を殺してください」 と叫び、身を挺して斎藤を庇い続けたそうです。 pic.twitter.com/VUvfXRCe6H
1941年12月2日、日本軍大本営が「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文により戦艦アリゾナを主標的とした真珠湾攻撃を訓電発令しました。
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この6日後、ハワイ真珠湾に停泊中のアメリカ海軍に日本海軍が奇襲攻撃を仕掛け、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まることになります。 pic.twitter.com/yg1s8xgq87
1944年12月2日、沢村栄治が亡くなりました。
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史上初のノーヒットノーラン、投手5冠、MVPを達成するなど、戦前のプロ野球界で活躍し、沢村賞にその名を残しています。
最期はフィリピン防衛戦に向かうために輸送船に乗船していたところを、米軍潜水艦「シーデビル」により撃沈され、戦死しました。 pic.twitter.com/UZHe3kUgWf
米スパイ衛星からの写真で判明、ローマ帝国が砦を建設した真の目的とは https://t.co/Ed2KrmN2o7
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冷戦時代に米国のスパイ衛星が撮影し、現在は機密解除された写真に、考古学的に極めて貴重な遺跡が写っていた。現在のイラクとシリアに存在した、これまで知られていなかった古代ローマ時代の何百もの砦(とりで)だ。
この砦の多くは、農業の拡大、都市の発展、戦争により、過去数十年間に破壊されたり、損傷し、現在は完全に失われている可能性もある。
しかし、これらの砦の存在が明らかになったことにより、1930年代に確立したよく知られる仮説の真偽が問われている。この仮説は古代ローマ帝国の東部国境沿いに設置されたそれらの砦が果たした役割に関するもの。このほど研究者らが、考古学の学術誌「アンティクィテイ」の中で、仮説の真偽についての報告を行った。
衛星からの視点で見ると、無数の砦が広範囲に分布しているのが分かる。この配置を考えると、これらの砦が敵を寄せ付けないために建てられたとする数十年前の理論は誤りである可能性がある。
むしろ、これらの砦は、キャラバンや旅行者たちが安全に通行できるように、非軍事の交通が多かった道沿いに建設された可能性が高い。
研究論文を執筆した研究者らも、この砦はあくまで街の一部や安息所であり、敵対的な障壁ではないとしている。
冷戦時代に米国のスパイ衛星ヘキサゴンとコロナによって撮影された画像には、その後、農業の拡大や都市の発展などにより著しく破壊された風景のスナップ写真が含まれており、考古学者らにとって極めて貴重だとジェシー・カサナ氏は言う。カサナ氏は米ニューハンプシャー州にあるダートマス大学・人類学部の考古学者で、今回の研究論文の主要執筆者でもある。
正しいのは衛星写真か、ポワドバール氏か
研究チームは、古代ローマ時代の砦らしきものを発見しようと画像の隅々まで調べた。古代ローマの砦は特徴的な正方形をしており、通常、長さ50~80メートルの壁がある。科学者らは、1920~30年代にフランスの考古学者でイエズス会の宣教師でもあるアントワーヌ・ポワドバール神父が行った同地域の航空調査によって作成された参照マップを使って調査を開始した。
この調査は、上空からの考古学的遺跡の撮影に世界で初めて成功した事例の一つで、ポワドバール氏は1934年に116カ所のローマ時代の砦を発見したと報告した。
ポワドバール氏によると、これらの砦は、ローマ帝国の最東部の境界に沿って南北に配置されていたという。ポワドバール氏は、これらの砦が東からの敵の侵入を阻止する目的で設置されたのは明らかだと主張した。
しかし研究者らは、ポワドバール氏の調査報告書で示されていたのは、ローマの古代インフラのごく一部にすぎないことを発見した。ポワドバール氏が見落とし、衛星写真で明らかになったのは、この南北に配置された116の砦は、実は、東西に広く配置された396もの砦群のほんの一部ということだ。
同研究によると、この砦群が配置されていた範囲は約30万平方キロにもおよび、イラクを流れるチグリス川のほとりに位置するモースルから始まり、ニーナワー州を経て、ハブール川とバリフ川の流域を横切り、ユーフラテス川の西の半乾燥地帯まで続き、さらにシリア西部、地中海に至るという。
古代ローマの安全のためのオアシス
考古学者らが衛星画像を改めて精査したところ、さらに106の砦らしき構造物を発見した。このことから、さらに調査を進めれば、さらに多くのローマ時代の砦が発見される可能性もある。科学者らは、その地域にある他のローマ時代の発掘現場のデータを基に、これらの砦は2~6世紀に建設されたと推定した。ポワドバール氏が発見した、ローマ帝国の東部国境沿いに並ぶ砦は、軍事要塞のように見えたが、今回発見された新たな証拠は、これらの砦は敵の侵入を防ぐための壁ではなく、ローマの交通量の多い道路沿いに設置された安全と秩序を確保するためのオアシスであることを示している。
カサナ氏は、当時の世界の国境は、障壁ではなく、活発な文化交流が行われ、商品とアイデアが行き交う場所だったとし、このような視点は現代への教訓になるだろうと付け加えた。
カサナ氏は「考古学者として言えることは、これまで多くの古代国家が国境沿いに壁を築こうとしたが、ことごとく失敗に終わったということだ」とし、さらに次のように続けた。
「考古学が現代の談話に貢献できるとすれば、それは、人々を排除するための巨大な壁の建設は得策ではない、ということであって欲しい」